10代後半から6年間、イタリアンのお店で働いてた飯野さん。群馬の実家はラーメンととんかつを出している食堂、ゆくゆくはお店を継ぐための修行だった。この頃、TVで東池袋の大勝軒を知る。
「行列のできるお店ということで、どんなものかと思って行ってみたら…初めて食べたもりそばの味は、それまで食べたことのない衝撃でしたね。それからは毎週群馬から東池袋までバイクで通って食べに行きました」
昭和26年。長野から上京、旋盤工として働いていたところを従兄弟に誘われ、17歳でラーメンの世界に入った先代の山岸一雄さん。厨房で先輩達が、ざるに余った麺の切れ端をさらして集めたものを、湯呑みに入れたタレとスープにつけて食べていたのを見て、つけ麺のアイデアを練る。
ここでつけ汁に、他の誰もが思いつかなかった"ラーメンのスープ"と"冷やし中華の甘酢ダレ"を融合させたのが、山岸さんならではの"味の発明"だった。ラーメンのスープでは味わえない、"甘みと酸味が引き出す、スープの旨味"がクセになって、つけ麺のファンになった人も多いと思う。
「何度食べても飽きがこないし、食べ終わった後にまた食べたくなる味なんですよね。それからやっぱり、1杯のあったかさ。マスターは『よく来たね』とか『がんばりなさいよ』とか『気をつけて帰りなさいよ』とか、ひとり一人のお客さんに声をかけてたんですよね。短い言葉だけど、あったかくて、マスターの働いてる姿を見ると・また明日からもがんばろう・って気分になれたんです」(飯野さん)
実家のラーメン屋の手伝いで、「東京では今こんなものがはやってるんだよ」と自分なりに研究した"もりそば"を出したりもした飯野さんだったが、やがてそれでは飽きたらず、山岸さんに弟子入りを頼み込む。
「当時はまだ、のれん分けはおろか、弟子も取っていなかったので、あっけなく断られましたね。5~6回は断られたかなあ?」、あっけらかんと話す飯野さん。5~6回って…普通2~3回断られたら、諦めそうなものだけど。
「うーん、そうですよねえ」、そう笑う飯野さん。こうして話していても、大らかで朗らかな感じがする。
「だけどそのうち、それまでは半分だったタマゴが1個になってたり、チャーシューが1枚増えてたり、スープの底にシュウマイが入ってたり(笑)、"これはいけるかもな"って状況になってきたんですよ」