【動画7】母流トイレの始末

<object width=”640″ height=”385″><param name=”movie” value=”http://www.youtube.com/v/DvAulemiXHA&hl=ja_JP&fs=1&”></param><param name=”allowFullScreen” value=”true”></param><param name=”allowscriptaccess” value=”always”></param><embed src=”http://www.youtube.com/v/DvAulemiXHA&hl=ja_JP&fs=1&” type=”application/x-shockwave-flash” allowscriptaccess=”always” allowfullscreen=”true” width=”640″ height=”385″></embed></object>

私は、密かに母のことを<トイレ・フェチ>と呼んでいる。

中でもトイレカバーへの思入れは、スゴイ!自分の服の洗濯はしなくても、トイレカバーは、毎日、いや、必要とあれば、1日に何回でも洗濯をする。それも手洗いだ。

imageそんな4月のある日、トイレカバーにトイレット・ペーパーが、巻かれるようになった。何じゃ、コレ?の次は、どうして?となるが、すぐにま、いいか、に落ち着くのが、今日この頃だ。

母には、母なりの理屈がある。

母に聞いても、私が考えても、結局よく分からないので、分からないままでいいじゃないの、というのが、私のスタンスだ。

でも、撮影はする。冷蔵庫の中身と同じだ。

ああ、見たくないと思う人がいることが、分かっていても、撮影する。

こういう時の私は、自分で言うのも変だが、冷静な監督だ。では、どうして?

image監督の私の頭の中には、どうやって母のストーリーを展開させ、発展させるのか、そして、それには、どんな画が必要なのか、をいつも考えているからだ。言い換えれば、編集をする時に必要なメイン・ストーリーの画とそれを補い、シーンを作れるようなカットの画の両方をねらって撮ろう、と考えているからだ。

だから、冷蔵庫の中身もトイレの不思議な様子も、更には、母が玄関に溜める使用済みのトイレの紙の山も撮る。これらの画が、なければ、私が語りたいストーリーは、語れないと監督の私が、思うからだ。

ただ、これから先、もし母が糞尿にまみれることになったら、私は、それを撮ることが、出来るのか?

それは・・・分からない。今分かるのは、そんな修羅場で決断しなければならない、ということだけだ。

 

ドキュメンタリー映像作家 関口祐加 最新作 『此岸 彼岸』一覧

関口家でも使っている、家族を守る”みまもりカメラ”

関連カテゴリー:
関連タグ: