姑や舅の介護に直面したとき、あなたならどうする? その難題に向き合うために、先輩の体験をレポート。さまざまなケースはあれど、『抜け道を見つけて、賢くすり抜ける』のが正解のようです――。
「義母に認知症の兆候が現れたのは70歳代後半のこと。講演やエッセイ教室で各地を飛び回っていた義母が、同じ話を繰り返したり、批評すべき生徒さんの原稿を失くしたりするようになったのです」
エッセイストとして活躍する藤原美子さんの義母は、壮絶な引き揚げ体験をつづった『流れる星は生きている』が大ベストセラーとなった作家の藤原ていさん(故人)。夫は、数学者で作家の藤原正彦さんだ。
「結婚が決まったとき、人生相談で厳しい回答をしていた義母を見て、親戚から『美子ちゃん、大丈夫?』と心配されたものでした。けれどその心配は杞憂であるとすぐにわかりました」
新婚当初から義父母の家の庭先に住み、頻繁に行き来するように。
「思い悩んだとき『美子さん、おたおたするものではありません!』と肝の据わった活を入れられると不思議と落ち着き、その言葉が聞きたくて義母に相談しました」
そんな義母が認知症と診断されたとき、主に心がけたことは3つ。
【1】自己イメージを傷つけない
「気丈だった母の誇りを傷つけぬように、表舞台からの引退もやんわりと『80歳はもう定年ですよね?』といった感じで勧めました」
【2】ひとりにしない
「義母の夕食の時間は18時と早く大変でしたが、間に合うように夕飯を作り、できるだけ皆でにぎやかに食卓を囲むようにしました。義母がひとりにならぬようにしたのです。息子たちはずっと義母に見守られながら成長してきました。今度は闊達な義母の老いていく過程を見守り手助けすることは、彼らにとっても大きな人生勉強になったのではないでしょうか」
また、美子さんはなんとか義母の認知症の進行を遅らせられないかと思案。5分前のことを忘れてしまうようにもなっていたていさんだったが、昔の話を好み、生き生きと話す。そこで’01年に義母に旧満州(中国東北部)再訪を提案する。
「義母の人生の原点は、満州からの引き揚げ体験。大学生を頭の息子3人も加わり、家族全員で訪れました。義母が昔を思い出すよすがとなり、要所要所で覚えていることを家族に伝えてくれました」
【3】輝いていた時代の歌を聴かせる
「義母の時代は満州事変以来、戦争ばかりでしたが、素晴らしい流行歌は健在で、主人が懐メロのCDを聴かせ、義母の好きな藤山一郎などを歌ってあげていました」
旧満州から帰国後、ていさんは自宅から近くのホームへ入居。週末ごとに夫婦と息子3人で訪れ、昼食を共にした。症状が進み、最後の2年は寝たきりとなった。
「点滴だけで命をつなぎ、意識も混濁し、これでよかったのかといまだに考えることがありますが、『死後は夫・新田次郎と共に』という義母の遺言どおり、同じ骨壺に納めることができました。いまでも問題に直面すると、義母ならどう言うだろうかと考えます。そして常日ごろから息子に義父母の話をしています。それが義父母たちが私たちの心の中に生き続ける唯一の手立てなのです」