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「それまで元気だった友人を、このところ立て続けに亡くしました。ライターの女性は、最後のメールのやり取りから4日後に突然、パートナーから連絡があって『永眠しました』と。旅仲間の男性は、血液のがんにより入院後わずか1週間で亡くなった。『人間は、いつ死んでも不思議ではない』とつくづく痛感させられる出来事でした」

 

こうかみしめるように話すのは、ベストセラー作家の下重暁子さん(84)。志村けんさんや岡江久美子さんの訃報に触れ「コロナ禍で多くの人が、死を自分ごととして感じるようになったのでは」と投げかける。

 

そんな下重さんは、新著『明日死んでもいいための44のレッスン』(幻冬舎新書)のなかで《明日死んでもいいためには、今日しっかり生きておかなければならない》と語る。そのうえで、私たちが元気なうちにしておくべき44項を示しつつ、こんなことも綴っている。《後悔はあった方がいい……いつ死んでも後悔する生き方がしたいというのも、アリだと思う》

 

一見、《明日死んでもいい》と《いつ死んでも後悔する》とは、相反する思いのようだが、その真意はどこにあるのだろうか。

 

「満足して死んだなんて嘘っぽいでしょう。思いを残して道半ばで死ぬ、一緒にいたい人と死に別れる。後悔する生き方とは、死ぬときまで、なにかに情熱を持ち続けている生き方だと思うのです。『今日』に情熱を傾けて生きるからこそ、死んだら後悔が残る。けれど、それもいい死に方ではないでしょうか」

 

下重さんに半生を振り返ってもらうと、現在の境地に至ったゆえんが見えてきた。

 

「私は小学校2年生と3年生の2年間で、たった1日しか登校できませんでした。結核で隔離療養を強いられたんです」

 

“感染症による闘病”を丸2年、少女期に経験していた下重さん。

 

「1日4度検温し記録をつけて、寝ているだけの生活。何もすることがないものだから、父の本棚から抜き出した本をながめては、想像を膨らませるのが日課でした。そこで『自分と向き合う』習慣が身についたんだと思います」

 

当時は致死率が高く“死の病い”とされていた結核。部屋で一人思いを巡らせるなか、否が応でも「死」を意識することになった。

 

’59年、NHKに入局し、アナウンサーに(故・野際陽子さんは1期先輩にあたる)。’68年、31歳でフリーとなり、以後もともとの夢であった文筆業も並行して行い始めた。そして50代に入る前から「後半生をどう生きるか」を考えるようになったという。

 

「幸い仕事に恵まれた私でしたが、『好きなことをなにもしてこなかったなあ』と強く思ったんです。大好きな音楽も“見る”専門で。そこで48歳のとき、子どものころから好きだった『クラシックで踊るバレエ』を思い立ったように始めました」

 

最初は友人が通っていた近所のバレエ教室に連れて行ってもらい、1年間のレッスンを受けて、発表会に出場。その経験で自信をつけると、かの松山バレエ団のビギナーズ・クラスに入団した。

 

「私のモットーは、『仕事は楽しく、趣味は真剣に』。バレエは、運動というより音楽なんですね。運動神経がいいことよりも、音を体で表現することができるかが大事。好きこそものの上手なれで、発表会の舞台には10年間出て、踊りました」

 

さらにこの時期から、少女時代に習っていた歌唱を、再び専門家について指導を受けるようになったという。60歳のときにはフランス料理店を自腹で借り切ってリサイタルを敢行した。

 

「フルコースをご馳走して、その後で私が歌う。食べた後では逃げられないだろうと思って(笑)。アナウンサー時代から、どんな大舞台でも、しゃべりでは緊張しなかったのに、歌ではアガりましたね」

 

下重さんが伝えたいのは「やらないで後悔して死ぬ」より「やって道半ばで後悔して死ぬ」のを選ぶべきだということ。

 

「過ぎ去った時間は取り戻せないけど、前にある時間は、手に入れられる。後半生が残り少ないと思うなら、前を見つめて生きる! そうすればきっと『後悔を残して死ぬ日を迎えられる』はずです」

 

「女性自身」2021年3月16日号 掲載

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