住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、カラオケで熱唱した歌の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。
「広瀬香美さんのボーカルレッスンスクールに通っていたこともあるんです。私にとっては、憧れの歌手で大先生。レコード会社のスタッフの方に『すごく影響を受けた』と言い続けていたから『じゃあ、楽曲提供を受けられるか頼んでみよう』という話になったんですね」
広瀬香美から楽曲提供を受けた経緯を語るのは、島谷ひとみさん(41)。幼いころから歌手になることを夢見ていたと振り返る。
「実家は瀬戸内海に浮かぶ小さな島。家の目の前の浜に立って、海に向かってどこまでも大きな声で歌っていました。父から『向こうの島に届くくらい大きく』って言われて」
母の実家が営んでいたカキの養殖所の社員旅行には、従業員の家族や親戚まで集まり、夜は宴会で盛り上がった。
「私のショータイムもあって、大川栄策さんの『さざんかの宿』(’82年)や、吉幾三さんの『雪國』(’86年)を歌うと、おじいちゃん、おばあちゃんが大喜び、おひねりをくれながら『大きくなったら、歌手になるんだよ』なんておだてるんです。まだ幼いから、その気になっちゃいますよね」
歌を聴くのも大好きで『歌のトップテン』(’86~’90年・日本テレビ系)は欠かさず見ていた。
「小学生時代は、フリフリの衣装がかわいかったWinkの『淋しい熱帯魚』(’89年)や、光GENJIの『パラダイス銀河』(’88年)といったアイドルソングが大好きで、家族で出かけるときは、姉が録音してくれた歌番組のカセットテープを車の中でずっと流していました」
小学校高学年になると音楽の趣味が広がっていった。
「いとこのお兄ちゃんの家に遊びに行ったとき『どれでも好きなCDを持っていっていいよ』と言われて手に取ったのが、ドリームズ・カム・トゥルーの『The Swinging Star』(’92年)。メロディはもちろんのこと、ソウルフルな吉田美和さんの歌声に衝撃を受けました」
広瀬香美の『ロマンスの神様』(’93年)、『ゲレンデがとけるほど恋したい』(’95年)を知ったのも、ちょうどこの時期。
「きっかけは、アルペンのCMだったと思います。“調律されたピアノを弾いているように、正確に歌う人だな”というのが、最初の印象」
ずっと“歌手になりたい”と思っていたが、高校生にもなると、“現実的に無理だ”という思いもーー。
「ところが’97年、高校1年生のときに、ワイドショー『ルックルックこんにちは』(’79年~’01年・日本テレビ系)の『女ののど自慢』女子高生大会に、近所のおばちゃんが申し込んでくれたんです。番組に出て歌うだけで、A~C賞の中から好きなものをもらえて、私はA賞の桐タンスと真珠のネックレス、スーツケースをいただきました」
このテレビ出演をきっかけに、いくつかの音楽関係者からコンタクトがあった。これらの誘いは断ったが、高校卒業後の進路を改めて考えたとき、封印していた“歌手になりたい”という気持ちが湧き上がってきた。
「そんなとき、たまたまスポーツ新聞で『第1回 THE JAPAN AUDITION』の広告を見つけたんです。安室奈美恵さんやDA PUMP、PUFFYなどそうそうたる顔ぶれが出演するオーディション番組で、“これに受かって、私は歌手になる”と決意しました」
「女ののど自慢」の賞品としてもらったスーツケースを転がして、再び上京。ドリカムの『未来予想図II』(’89年)を熱唱した。
「オーディションは『スター誕生!』形式。8社のレコード会社や芸能プロが札を上げてくれて、高校卒業とともに上京しました。芸能界を目指してトレーニングする女のコのための寮に入って、『わからないことがあったらなんでもこのコに聞きなさい』と紹介されたのが、少し先輩の国仲涼子ちゃんだったんです」
プロになるためのレッスンは厳しく、ダンスレッスンではリズムの取り方がわからなくて、一歩も足を踏み出せなかった。
「得意だったはずの歌も、パワーがまったく足りず、声が裏返ったりかれたりして、一曲もまともに歌えませんでした」