「1980年代のアメリカで抹茶を飲んでもらおうと思っても、最初は『グリーンティーってなんだ?』という反応。紅茶のブラックティーは知っていても、『グリーンティー』という言葉すら知られてませんでした。今の状況からは信じられないでしょうね。
なんとか興味を持ってもらおうと、自ら紋付き袴で茶道のデモンストレーションをやったり、健康志向に訴えたりしましたが、なかなか浸透せず。朝起きてから寝るまでのどの場面でお茶を利用してもらうか? どう使ってもらうか? 寝ても覚めても考え続けました。
最後に思いついたのが、“クール”を打ち出すこと。ファッションにしちゃって惹きつけよう、と。ふと頭に浮かんだのが、抹茶とアイスクリームの組み合わせ。若者たちが抹茶アイスを片手に、ストリートを闊歩する光景でした」
1993年にこの抹茶アイスを初めて発売すると、米国中でまさしく爆発的に売れた。
いまや国内を超え、“MATCHA”として世界共通語になっている抹茶。アイスや飲み物はもちろん、ケーキやチョコまで抹茶味は定番となり、外国人訪日客にも絶大なる人気。なんと、アフリカにまで抹茶カフェが出現。
そんな大流行の端緒ともいうべき、30年以上も前の抹茶アイス誕生に至る秘話を語るのは、ロサンゼルスを拠点に米国はじめ世界へ販売網を持つ日本茶販売会社「前田園USA」創業者・前社長の前田拓さん(70)。抹茶アイスだけでなく抹茶ラテの生みの親でもあり、自他ともに認める世界的な抹茶ブームの仕掛け人だ。
長崎市で九州銘茶を手がける老舗の前田園に生まれる。
「3人兄弟の真ん中。『家業は気にせず、次男のおまえは自分で道を拓け』と、父が“拓”と名付けたと聞いて育ちました。私自身、就職後は親とは違う道で独立しよう、と考えていました」
慶應大学商学部に進み、マーケティングを学びながら、自分の人生のミッション、切り拓く道は何かと悩み模索しながら、4年生のときにはアメリカ留学も。
「1970年の万博を機に日本人の生活スタイルも欧米化し、高度成長期を好機と見たマクドナルドやケンタッキー、デニーズなどが次々と日本上陸し、大歓迎で受け入れられていました。
それら洋食系の店ではお水は出てもお茶は提供されませんし、普段の生活でもコーラや炭酸ジュースなど刺激的な飲み物が好まれるようになっていて。このままでは日本茶は利用される生活シーンを失うとの危惧をボクは感じていました。
『伝統を破る“無茶”をしないと、お茶は無くなる』という内容を、親孝行のためにアメリカから父親に送ったレポートにも、大学の卒論にも書きました」
その問題意識を強く感じながらも、「お茶が我が道」とはまだ思いもせず、卒業後は不動産会社に就職。すぐにトップセールスマンとなり、歩合制だったので年収も1000万円を超えた。しかし、「このままでいいのか?」と自問自答し、2年半ほどで退職してしまう。
「学生のころは、当時流行っていたモラトリアム(社会に出るのをためらう)族でもあり、実は大学生活も7年に及んで、自分は本当に社会で通用するのかと、漠とした不安も抱えていました。それが営業トップを取れたことで、『やればできるんだ』と自信を持てたんです。
ならば、『自分がやりたいことをやろう! でも、それはなんだ?』と、まさに日々悩んでいた会社員のころ、大手町から地下鉄の千代田線に乗っていて、北千住駅を過ぎて電車が地上に出たときに光が目に飛び込んだ瞬間、アメリカにて日本のお茶でチャレンジするというミッションがひらめき、『これだ!』と」
あえて家業を避けていた部分もあった、と当時の心境を打ち明けるが、
「ふり返れば、子供のころからお茶の家業を手伝い、母親の影響で幼いころより茶道をやっていたり、留学時のアメリカ人家族との出会いや、親の送ってきたお茶を米国人にふるまったときに抹茶が最も反響があるのをリサーチしていたり、卒論も『無茶』という題だったりと、いろんな出会いのすべてがアメリカでお茶をやることにつながっていったんです」
前田さんならではの、大胆かつユニークな発想にもとづく、こんな“無茶”な思惑もあった。
「かつて70年代に日本人がマックやケンタに飛びついたように、アメリカで新しいお茶の楽しみ方を発見して日本に逆輸入すれば、お茶は延命、復活できるはずだ」
敬愛する坂本龍馬の脱藩と同じ28歳(龍馬は数え年)の3月24日に、脱サラ・脱日本で単身渡米。アメリカのへそといわれるテキサス州ダラスで前田園USAを創業したのが1984年だった。
「最初はまさに行商でした」
地元のスーパーや流行っていた和風鉄板焼チェーンなどへ飛び込み営業を重ねていきながら、1989年末にロスに海外初の日本茶専門小売店をオープンさせ、1992年には3店舗に。続いて冒頭のとおり、1993年に抹茶アイス“Maeda-en Green Tea Ice Cream”を開発・販売し、1995年に日本へ逆輸出して全国展開。それがきっかけとなり、やがてハーゲンダッツはじめ日本国内の名だたるメーカーも追随して、一大抹茶アイスブームが巻き起こる。90年代当時は抹茶などの和風アイスクリームはなく、“カリフォルニアからの逆輸入アイス”のインパクトは大きかった。
「96年、現地で抹茶アイス製造会社を設立したり、日本への輸出を紹介する記事が日経新聞等で報じられたりもあって、問屋さんに、『国内外のアイスを手がける多くの企業から“前田園USAの抹茶アイスを当社の商品開発ラボに送れ”という依頼が殺到してる』と聞かされたこともありました」
続いて99年、抹茶ラテを世に送り出す。
「80年代、まだシアトルに数店しかなかったスタバを見て『抹茶カフェは?』と思ったけど、まだ早い。1999年、抹茶アイスも軌道に乗ったと見て、世界のどこにもない抹茶カフェで抹茶ラテを提案しようと決断します。抹茶をかっこよく楽しんでもらいたい、紙コップで気軽に歩きながら飲ませたい、抹茶イノベーション(革新)だ、と思ったのがはじまりでした。
さらに言えば、お茶にお金を払ってもらうことで、新しいライフスタイルを提案できるのではないかと。日本の和風喫茶では、お茶と和菓子のセットメニューが通常スタイルでした。お茶だけでお金が取れないからです。だから、そうではなく、お茶そのものに価値があるんだという提案。受け入れられるか心配で、勇気がいりました」
ロスにオープンさせた抹茶カフェ「グリーンティーテラス」は、もちろん世界第1号。抹茶ラテやエスプレッソのメニューがウケた。メニュー開発以外に製造面での工夫も、各国各地に多店舗を展開していくうえで不可欠との思いで知恵を絞った。
「抹茶を立てるときに本来は竹製の茶筅(ちゃせん)を使いますが、人件費や管理費などオペレーションコストが高くなる。そして、もし竹の破片が口に入りケガなどさせれば、アメリカでは大きな訴訟もありえます。
そこで、エスプレッソマシーンのスチーマーで泡立てる独自の製造法により、安全性の確保と、ハンバーガーチェーンのように誰もが作れるようにマニュアル化しました。みなが日本人のように器用じゃありませんからね(笑)。
このとき製法特許の申請もしましたが、抹茶ドリンクを世界中で簡単に提供してもらうために、『よし、開放しよう!』と決めたんです」
2011年には、前田園USAがオーストラリアでも抹茶アイスクリームの製造販売を始めるなど輸出販売とともに、いよいよMATCHAは世界を席巻していく。
「私は『お茶の400年周期説』を提唱してきました。9世紀には最澄・空海が、13世紀には栄西が大陸からお茶を持ち帰り、17世紀前後には千利休が茶道を大成させ、隠元が煎茶を日本に伝えた。今こそ次の400年後の21世紀、ここで新たないイノベーションを起こせないと、本当にお茶はなくなっちゃうんじゃないかと」
その危機感とともに自ら“抹茶クリエイター”となり、先頭に立って挑戦を続けてきた。一方で、日本の緑茶・抹茶の輸出量は、抹茶ブームを背景に、この10年間で約3倍に拡大したとのデータもあるが、同時に粗悪品の広がりなどの課題も出てきている。
「2023年に『抹茶革命と長崎』を出版。執筆はコロナ前の2019年でしたが、その時点で抹茶が世界で革命的に広がると確信して、本のタイトルを決めました。
それもあり、私は以前から農林水産省に対して、シャンパンのように、日本の抹茶も生産地ブランドを守る地理的表示(GI)保護制度を導入するべきだと訴えてきました。今年『日本茶』が登録され少しはホッとしていますが、日本産抹茶の将来は依然として厳しいです」
昨年2月に社長職を退いた前田さんは、自ら設立したNPO善巡環前田財団にて長崎県の中高生を対象に留学支援などを行い、この8月、第1期生たちを引率して訪米してきたばかり。21世紀のお茶創造というミッションは完了と納得し、70歳代は「長崎・若者・未来」を次なるミッションとして新たなチャレンジを始めている。
「リスクに挑むファーストペンギン(先駆者)として、お茶の世界で0を1にする楽しさを味わわせてもらいました。次は、1を100にも1000にもする若きクリエイターの出現に期待します」
そもそも、当初は海外の人々にとっては未知の存在だった抹茶が、なぜここまで受け入れられたのか。
「その背景には、奥深い日本文化への憧れやリスペクトがあると思うんです。アップルの創業者のスティーブ・ジョブスも禅に傾倒し、日本茶を嗜んでいたのは有名ですよね。
単なる珍しい味覚だけでは、いずれ飽きられる。抹茶やお茶はおいしいし、自然のもので健康にいいし、クールだし、癒しの時間もくれる。そのうえに長い歴史の文化や物語が背景にあるなど、多くの魅力がミックスされた存在。
緑の色もよかった。あれがピンクや紫ならどうなっていたかなと、想像するときがあります」
インタビューの最後も、お茶にまつわるこんなメッセージを。
「私は現在、『大浦慶顕彰碑を建てる会』の代表でもあります。日本茶は、幕末日本の輸出品ナンバーワンでした。お慶さんという人は、幕末の長崎で初めて日本茶輸出を手がけ、日本の外貨獲得に大いに貢献した初の女性貿易実業家。アメリカ大統領に対面した初の日本人女性でもある。もう、これだけでドラマのヒロインになりそうでしょ(笑)。2028年はお慶さんの生誕200年。そのときに彼女の偉業を称えるモニュメントを長崎に建てる計画です。
ジェンダーに関する議論が盛んな今こそ、あの時代に、しかも女性が、お茶の世界的商品価値を見いだし、外国人相手に地球規模で大成功を収めたことをもっと多くの方たちに知ってもらい、世界が激変する次世代の若者たちに、希望と勇気を共感してもらいたいんです」
いまなお広がり続ける抹茶ブームのなか、仕掛け人本人はすでに次代を見据え、伝統文化の新たなイノベーションや才能の出現を待望している。
画像ページ >【写真あり】昨年、社長職を引退した前田さん(後列右端)は、自ら設立したNPO善巡環前田財団にて長崎県内の中高生を対象に留学支援等を行っている(他2枚)
