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近年、イスラム国に象徴される過激派イスラム組織と、資本主義に象徴される西洋文明の衝突が止まりません。それは従来の国家間の対立を超え、ある種の“文明の衝突”の様相を呈しています。イスラム国は既存の国家間の境界を無視し、宗教を基盤とした新たな国家建設に取り組んでいます。彼らが信じる宗教的原理の根底には、人類の終末を意味する“最終審判の日”が近づいているという認識がある。そのため、彼らの行為は我々の理解を超えた野蛮さに満ちています。

 

ただ、彼らが単なるテロ組織を超えて新たな国家建設に真剣に乗り出していることも、我々は理解しておく必要があります。メディア報道では狂信的な原理主義に基づく残虐行為を繰り返す集団にしか見えませんが、今やイスラム国は支配領域を広げ、あたかも国のように統治しているのです。たとえば、彼らが手中に収めた都市の人口は8百万人にも上るとされ、その支配領域はイギリスより大きいとも言われています。ここで彼らは課税をし、物価をコントロールし、裁判を行い、福祉や教育などの行政サービスも管轄しています。

 

 

イスラムと西洋文明の対立は昨日今日の話ではてなく、1千年を超える歴史を持っています。近年の一連の衝突も、その長い歴史のなかの一つの現象に過ぎません。そして重要なのは、イスラムや西洋文明の両方に原理主義的な側面があるということ。“原理主義”は神への絶対的な信念に基づくものなので、その信念が異なる相手とは本質的に相容れない部分が生まれます。だから両者の対話は成り立たないのです。

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こうした構図を眺めながら私が思ったのは、この終わり無き暴力の連鎖を終焉させるカギは日本的な精神や宗教観にあるということです。八百万の神々に象徴される日本の宗教観は、自然界のあらゆるものに神は宿っているということ。排他ではなく、区別や線引きを超えた融和にその基軸がある。個別な差異を超えて、高次元での類似性を見つけ出そうとする“包含の精神”です。この混乱する世界に足りないのは、まさにこうした差異に対する寛容の精神であり、相手の欠陥に対する慈悲の精神です。異なることが、敵対の理由にはならない。相手への深い感受性を持つことは、平和への第一歩なのです。

 

たとえば、日本の茶道の世界では“相対性”という概念が大事にされています。相対性とは、物ごとには角度によって見え方が違う可能性があるということです。自分が見ている世界が絶対的ではない。見えているものが違うからといって、見ているものも違うとは限らないのです。こうした相対的視点を心掛けることで、人は “謙虚さ”を持つことができるようになります。ときに自分の意思から離れ、物ごとを眺めること。自分の存在や視点を絶対視せず、他者の存在や視点を認めることが我々には必要です。

 

警戒すべきは“無神経さ”です。自愛の増大が、他愛の減少をもたらすものとなってはなりません。愛国心が、他国に対する排他的な心に繋がってはなりません。自分への愛に気づいたとき、相手も相手自身を愛するという認識に辿り着けるかどうか。自国への愛に気づいたとき、相手も相手の国を愛するという認識に辿り着けるかどうか。自分のことで精一杯にならずに、常に相手の身になって物ごとを考えるのです。

 

 

こうした他者の感情への感受性、他者との差異への寛容さ、他者の痛みへの注意力などに象徴される人間の精神性の上昇にこそ、この果てしなく続く暴力の無限連鎖の鎖を断ち切るためのカギがあるではないでしょうか。

 


ジョン・キム 吉本ばなな 「ジョンとばななの幸せって何ですか」(光文社刊・本体1,000円+税)

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吉本ばなな

1964年東京生まれ。’87年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。’88年『ムーンライト・シャドウ』で泉鏡花文学賞、’89年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で山本周五郎賞、’95年『アムリタ』で紫式部文学賞、’00年『不倫と南米』でドゥマゴ文学賞をそれぞれ受賞。海外でも多くの賞を受賞し、作品は30カ国以上で翻訳・出版されている。近著に『鳥たち』(集英社刊)、『ふなふな船橋』(朝日新聞出版社刊)など。

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