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2月某日 東京

日本に戻ってくると、テレビ番組に出る仕事も幾つか引き受けておりますが、生放送の報道関係の番組などで、コメンテーターとして出演すると、いまだに「漫画家のはずのヤマザキマリが何故テレビに?」というコメントをネットで見受けます。

古代ローマや美術、イタリアや中東など自分と接点のある内容を扱ったものであれば、視聴者の方たちにももっと容易に納得がいくのかもしれませんが、確かに普段、日本に暮らしていない私が、なぜ一般的な時事を扱った報道番組のコメンテーターに? というのは自分でも感じています。

ただ、やはり日本に居ないからこそ活かせる視点というのもあるかもしれませんから、依頼があった時点で直感的に、これは出ておいた方がいいかもしれない、と感じたものには出演させていただいているわけです。

そんな番組の一つが、先日出演したNHKの『あさイチ』でした。この番組にはかつて実写版『テルマエ・ロマエ』のプロモーションで出演したことがありましたので、出演依頼があったときはまた何か、そういった私の仕事か、専門分野関連についてなのかと思っていました。しかし、先方からのリクエストはその日の番組のテーマである『再婚』についてのコメンテーター。

確かに10年も付き合ってきた男性と出産を機に結婚もせずに別れ、その後シングルマザーとなって子育てをし、後に今の夫と結婚……という一般的順番を無視した変則的な経歴を辿れば、『再婚』というテーマの内容に、もしかしたらどこかの誰かにとって、ちょっとくらいは参考になる何かを言えるかもしれません。

ただ、逆に『再婚』という、海外に暮らす自分の周辺では別に珍しくもなんともないものが、朝の視聴率の高い日本のテレビ番組において、じっくりと吟味するに値するほど、大きな問題として捉えられているのが少し意外で、実情を知りたいという興味も芽生えていました。

離婚をした女性が再婚をすると、幸せなだけで済ますことはできず、そこに付随して発生してしまうさまざまな問題。

奥様を亡くされて夫の後妻となったとある女性の悩みは、家の中にいっぱいに飾られた前妻と家族の楽しい写真、そして仏壇と遺影。後妻である自分の存在感に不確かさを感じるも、それらのものを片付けて欲しいと夫に言うことができない辛さ。

子連れで結婚をしたものの、夫が自分の子供をどう思っているのかが判らず、やはり血が繋がっていないせいで嫌がられているかもしれないという不安。

相手の連れてきた子供を可愛がっているつもりなのに、端からは恐ろしい継母扱いを受ける女性。そんなはずじゃないのにそんな誤解をなかなか晴らせない。

 

再婚について悩める女性から集められたさまざまな件例をベースに、際限されたドラマを見つつ、何とも複雑な思いに駆られるも、どれに対しても私が感じてしまったことは、言葉でのコミュニケーション不足、ということでした。

私は17歳からイタリアという、とにかく悩みや不安を胸中に貯めることが出来ない人種の中で暮らしてきているので、どの例を取ってみても“夫と面と向かって話してみたら、相手の考えていることもわかるのでは? 相手の言い分も確かめない限り、憶測だけでは不十分……。なのになぜ、自分にとって一番身近であるべき存在の人と、面と向かって話し合わないのだろう?”という疑問を抱いてしまうのでした。

パートナーというものは、夫でも恋人でも同僚でも、決して自分が憶測しているような物事の捉え方や判断をしているわけではありません。それくらい“自分ならこうされたら嫌なんだから、相手もきっと同じはず”と思っても、相手は案外、そんな風に意識していなければ、頓着もしていないことがあるものです。

合理主義的な西洋人の中でも、特に物事をはっきりさせなければ気の済まないイタリア人などは、とにかくその曖昧な、日本では美徳とされる「あうん」という具体性のないテレパシー的コミュニケーションが大変苦手な人たちですから、資質が純粋な日本人である私は、彼らの生き方に適応するのはかなり苦労してきました。そして散々その中で揉まれてきた結果、無意識のうちに自分も後天的にそういう性質を身につけてしまったわけです。というより、そうしなければ、あの国では仕事でもプライベートでもやりくりしていくことは出来ないから。

日本では私の暗黙の了解の不得手さが要因となって、ネットで炎上騒ぎが起きてしまったりもしましたが、とにかく人間同士がいろいろやりくりしていく上では炎上しようがバッシングされようが、言葉に変えてはっきりと思っていることを相手に伝えなければ埒が明かない、と感じることは普段でも何度となくあります。

日本では人間の生き方の種類が少ないうえ、そこに属せない人は「場を読む」とか、「世間体」といった見えない抑圧に向かい合って生きていかなければなりません。そんな中でやはり離婚や再婚をする人たちは、肩身の狭い思いを強いられて大変だろうと思いますが、例えば北米や南米のような、世界中の人種の坩堝となった国々では、平気で7回、9回再婚という人もいますし、家族の中には「先妻の元夫の連れ子」など、まったく血のつながっていない子供が交じっていても、偏見なく楽しく暮らしていたりします。

あまりにたくさんの人種が、多種多様な生き方や物事の考え方を展開している日常の中にいると、何かを「特殊」だと感じる機会はほぼありません。あまりにもそれぞれの人生のパターンが多過ぎるので、そうすると生き方の目安を強制する「世間体」というものも発生しなくなりますし、「場を読む」「目障りにならないあり方」なんてことはもう完全に意味を持たない、ナンセンスなものになるわけです。

そんな世界をもう何十年も見て来てしまった私には、やはり日本で既存の数少ないパターンの生き方と違う顛末の人生になってしまった人たちが、悩みや不安を打ち明けることもできずに生きているのが、何やらもどかしくてなりません。

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