1月某日 東京
「偉大なアメリカを取り戻す」と叫んでいたトランプ大統領が誕生しました。
偉大なアメリカ……私がアメリカって凄い国だなあ、と人生ではじめて感じたのは、おそらくアニメーションの『トムとジェリー』を見ていた幼少期のことだったかもしれません。この大好きで止まなかったアニメのお気に入りのエピソードのいくつかが、第2次大戦中に作られて放映されたということを、だいぶ後になって知ったときは大きな衝撃を受けました。日本がこの戦争ですっかり疲弊し、飢えと困窮で皆よれよれになっていた時に、アメリカは技術的にも内容的にも圧倒的なクオリティが高い、ドタバタコメディ・アニメーションを作っていたのです。
私の好きなエピソードのひとつに、終戦した1945年の作品があります。のどか過ぎる田舎にうんざりしたネズミのジェリーが都会へ出て行く、というものですが、まだ外国の街のイメージが抱けなかった子供時代の私の目には、このアニメで表現されているリッチでゴージャスなアメリカの大都会の様子があまりに印象的で、田舎者のジェリーと同様にその光景の美しさに胸をときめかせたものでした。
トムとジェリーだけではありません。『オズの魔法使い』や『風と共に去りぬ』といった映画史上屈指の大作が米国で公開されたのは1939年ですが、この年はイギリスとフランスがドイツに宣戦布告をしたことによって世界大戦の火蓋が切られた年です。そんな時にアメリカではこのような莫大なコストを掛けた素晴らしいエンターテインメントが、人々の精神を潤していたのです。
アメリカという国の存在感は、まだ社会の構造を知る由もない子供心にも把握できるほど、パワフルなものだったわけですが、そのわりには私はこの国にたいして特別な憧れを持った事はありませんでした。それは恐らく戦争を体験した母のアメリカにたいする辛辣な見解の影響もありましたし、イタリアでの学生時代に世界での政治情勢に関心を持つようになっていた私には、資本主義大国アメリカは、魅力を感じる国とは言い難いものになっていました。なので、その後に夫の仕事の都合でアメリカへ引っ越す可能性が浮かんできたときは、全く嬉しくありませんでした。
それでも決意してアメリカに渡ったのは2010年、オバマ大統領が就任した翌年のことでした。オバマの選出はそれまでのアメリカを何か画期的に変えてくれるかもしれないという、多くの人々が抱いた期待を私も漏れなく感じ、こういう人が選出されるアメリカなら面白いかもしれない、と思ったのです。
古代ローマの研究者である本村凌二先生と、何かの対談の折にアメリカの大統領の存在が古代ローマの皇帝たちと対比できるという話をした時に、オバマ選出は、本国古代ローマの出身者ではなく属州が出自の皇帝が選出されたのと似た感覚だろう、という意見で同意したことがありました。
古代ローマが帝政になってからは、実に様々な性質の人物が皇帝の地位につきましたが、中には一国とその民の代表としては全く相応しくないと言って良い精神の破綻した人もいましたし、優れたリーダーシップと明晰な頭脳を持った皇帝もいました。帝政期になって初めて、属州出身のトライアヌスが皇帝になった暁には、古代ローマの領域は史上最大にまで拡張し、その後に皇帝になった同じく属州出身のハドリアヌスはその巨大化したテリトリーのメンテナンスに従事し、国と国民に平和の時代をもたらしました。出身地がどこであろうと、保守的な固定観念に縛られず、優れた手腕を発揮出来る人間がリーダーとして選ばれたのは、画期的な出来事だったと言えるでしょう。
しかし、実際オバマが大統領だった8年の間、世界ではシリア扮装やISのテロなどといった簡単には収束できないハードな事象が発生し、情勢が動乱を極める中で彼は「アメリカは世界の警察官ではない」という発言をしました。沈着冷静に状況を見計らった言葉でしたし、中にはその通りだと納得した人たちも少なくなかったと思いますが、自分たちの国は世界で一番のはずなんだ、いつの時代もヒーローなんだと信じたがっていた国民は、相当しょんぼりしたに違いありません。
そんな中に現れたのが、ドナルド・トランプという人だったわけです。テレビで大統領の就任式を見ながら、人間の飽くなき社会への挑戦と試みを感じさせられたのでした。
ベルルスコーニを嫌悪しつつ羨ましがっていた舅
私の暮らすイタリアには、つい最近までベルルスコーニというメディア系の大実業家が首相を務めていた長い長い時代がありました。トランプ氏が当選した時のイタリアの反応をよく問われる事がありますが、私の周辺では多くの人たちが「ベルルスコーニの経験があるから、思っていたほど激しい衝撃や動揺は感じなかった」という冷静な反応をしていました。
ベルルスコーニという人の特異性は書き出したらキリがないと言っていいほど、とんでもない事を数えきれないくらいやらかして来た人ですし、そんな自国の代表者の存在にウンザリしていた国民も沢山いたはずでした。しかし、どういうわけか、選挙があればしっかりとした支持率を取って、何故かこの人が必ず選出されてしまうわけです。様々な経済的問題を抱える南部の人々に支持者が多いとされているのは知っていましたが、暫くすると、隠れベルルスコーニ支持者というのがイタリア全土にいる、ということが何となくわかってきました。トランプ大統領にも表には意志を出せない隠れ支持者が沢山いたという事実が話題になりましたが、それと同じです。
ベルルスコーニみたいな男が最終的に支持されるのは何故なのか、今まで私も幾度となく考えてきましたが、やはり知識人による表層的で質感のない統治が続くと、人々の中にそれとは逆の要素をもった人間を求める志向が芽生えてしまうものなのかもしれません。
ある時ベルルスコーニは十数名もの美女を侍らせて年越しをした事が明らかになり(本人の発言によると、その夜はその全員と性交渉があったわけではない)、それまでのどんな汚職事件発覚をも凌ぐ物議を国内で醸した事がありましたが、その時私は、人というのは、実は至極単純なレベルの、大して頭を使わない次元で『凄い』と思える人物を、どこかで求めているのではないだろうかということ感じたのです。
自分にはできない大胆な発言をし、大胆な行動を起こす。人から嫌われるような態度を堂々と取る。80歳近くなっても若い女性を惹き付ける経済力がある。そういった事柄が群れのボスになるには何よりも求められる素質と言えるのかもしれない、と。実際うちの舅はベルルスコーニを猛烈に嫌悪しつつも「若い女性十数人をベッドに連れ込んで年越しなんて羨ましいもんだ」とうっかり漏らしていましたから。
まあ、そんなとんでもない首相と長い間付き合ってきたイタリア人みたいな国民は、どこか諦観した眼差しでトランプ大統領を見ているような気もしますし、中には「4年もしないうちに、大統領みたいな疲れる仕事は辞めるんじゃないのか」などと推察する人もいます。
確かなのは、トランプがどんな人であろうと彼は民衆によって選ばれた人であり、選ばれただけの結果を出さなければならない義務を背負った人だということです。まずはメディアなど自分にとって不都合のものに対して激しくのたまう、あの膨大なエネルギーを、さっさと人々の求めている有意義な行動に注いでもらいたいものです。それができるのなら。
なにはともあれ、ベルルスコーニという前例と古代ローマ時代に生きた様々な皇帝たちを思い出すことで、なんとかこの現実とも少しだけ向き合っていけそうな気が、し始めているのでした。