お経を聴くのは葬式の時くらい。それも意味が分からないし、お坊さん独特のリズムで読まれるので、聴いているうちにだんだんと眠くなる……。そんな人は多いだろう。 
それじゃ、あまりにもったいなさすぎる!
仏教のエッセンスが詰まったお経は、意味が分かってこそ、ありがたい。世界観が十二分に味わえる。この連載は、そんな豊かなお経の世界に、あなたをいざなうものである。
これを読めば、お葬式も退屈じゃなくなる!?

著者:島田 裕巳(シマダ ヒロミ)
1953年東京都生まれ。宗教学者、作家。東京大学文学部宗教学科卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。現在は東京女子大学非常勤講師。著書は、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『葬式は、要らない』(以上、幻冬舎新書)、『0葬』(集英社)、『比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか』『神道はなぜ教えがないのか』(以上、ベスト新書)、など多数。

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【観無量寿経はニセのお経?】

浄土教信仰を説いたお経として著名なものが、『浄土三部経』と呼ばれるものである。三部経というとらえ方は、浄土教信仰に限らず、中国や日本でのお経のまとめ方には広く応用されていて、『弥勒三部経』や『法華三部経』などがある。

『弥勒三部経』は、『仏説弥勒菩薩上生兜率天』『仏説弥勒下生経』『仏説弥勒下生成仏経』からなっている。

『法華三部経』は、『無量義経』『妙法蓮華経』『仏説観普賢菩薩行法経』からなっている。

そして、『浄土三部経』の場合には、『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』からなっている。

 

この『浄土三部経』が、浄土教信仰を説いた経典になるわけだが、一つ触れておかなければならないことは、このうち、『観無量寿経』については、インドで作られたことを示すサンスクリット語の原典が伝えられていないという事実である。また、漢訳は一つだけで、ほかに異訳がない。そのため、インドで作られたものではなく、中国や中央アジアで作られたものではないかと言われている。

もし『観無量寿経』が、インドではなく、中国や中央アジアで作られたものだとしたら、正式なお経ではなく、「偽経」であるということになる。

 

image【釈迦が何を説いたのかは、実ははっきりしていない】

仏教の世界では、サンスクリット語で書かれたお経を「真経」、あるいは「正経」と呼び、中国や朝鮮、あるいは日本で作られたお経を「偽経」と呼んで区別している。

これは、日本の仏教界では慣習になっていて、偽経については一段価値の劣るものととらえられている。

しかし、仏教の歴史を考えてみるならば、偽経というとらえ方自体に問題がないわけではない。

というのも、間違いなく釈迦が説いた教えがどこかのお経に残されているわけではないからだ。

 

初期の仏教のお経は「原始経典」と呼ばれ、その後のお経と区別されるが、原始仏典の代表である『スッタ・ニパータ』の一部には、釈迦が実際に説いた教えが含まれているとも言われる。ただし、その点は必ずしもはっきりしてはいない。

つまり、釈迦が何を説いたのか、実際にははっきりとは分かっていないのだ。それは、仏教という宗教の成立を考える上では極めて重要な問題だが、あまりにも重大すぎるので、ここでは詳しくはふれないことにする。機会を改めたい。

まして、大乗仏典になれば、どれも釈迦が亡くなったとされる時代から、相当に時間が経った時期に作られている。大乗仏典は膨大に存在し、しかも、お経の決まり事にしたがって、「如是我聞」ではじまるものの、そこには釈迦が実際に説いた教えは一言も含まれていないのだ。

 

そうなると、大乗仏典は、すべて偽の経典、偽経であると言うことも可能である。実際、江戸時代には、富永仲基という思想家が、大乗仏教は釈迦が説いたものではないという「大乗非仏説」を唱えた。それは、明治になると改めて注目を集めることになるが、富永仲基の主張は当然のことである。

そうであるなら、なぜインドで後世に作られた大乗仏典は偽経とされないのに、中国などで作られたものは偽経とされるのか。その点が疑問になってくる。偽経という言い方は中国で生まれたものではあるものの、それは正しいとらえ方なのか、その点が大いに疑問になってくる。

 

【中国と日本で大事にされてきた「盂蘭盆経」】

実際、私たちの信仰のなかで、偽経が大きな影響を与えているものがある。

たとえばそれが、盆の行事の由来を述べた『盂蘭盆経』というお経である。

『盂蘭盆経』には、釈迦の弟子である目連尊者が登場し、亡くなった自分の母親が餓鬼の世界で苦しんでいるのを発見する。そこで釈迦に救いを求めるのだが、釈迦は、食べ物などを布施すれば、それで母親は救われると教える。これは、盆の行事がはじまった理由を説明したもので、このお経は中国や日本でとても重要視されてきた。

 

ところが、『盂蘭盆経』については、サンスクリット語の原典はなく、チベット語訳もない。そこで、中国で作られた偽経であると見なされている。たしかにそこには、中国流の先祖供養の信仰が盛り込まれており、いかにも中国で作られたことがうかがえるお経である。

『盂蘭盆経』という偽経に記されている教えは、中国で勝手に作られたもので、それは仏教の教えからは逸脱する間違った教えだとされたとしたら、いったいどうなるだろうか。

 

私たち、日本人は、現代でも盆の行事を営んでいる。昔ほど盛んではなく、盆が来ても、何もしない家も増えているかもしれないが、地方では今でも盛んだ。

その広く普及した行事は、実は偽物で価値がないと言われたら、多くの日本人は困惑することだろう。少なくとも、ほとんどの日本人は盆は仏教の行事だと信じ、それを疑ってはいない。

(つづく)

 

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