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<この物語は、ある霊能力者をモチーフにして描かれたフィクションである。>

枯草の匂いがする。

とうに沈んだ陽が、それでもまだ残照の幾らかを足元の草々に残していた。明美は、この枯草に残る夕日の匂いが好きだった。それはまだ、柔らかな温かみを求めて家路を急いだ幼き日々を思わせる、鼻腔をくすぐる懐かしさを漂わせていた。

しばし紅に染まった山の端に見蕩れる。背後の樹間にはすでに闇が佇んでいる。

「…えっと…ここは? どこ?」

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手にはまだ、美由紀の背中の感触が残っている。確か…、瞑想中にふいに入ってきた美由紀に憑いた生霊の欠片を払い、再び瞑想に浸ろうとしたところまでは覚えている。

瞑想の最中に様々なビジョンを目(?)にすることは珍しく無いが、この感覚は全く違った。初めての感覚だ。

頬を嬲る風の冷たさや残り陽の温かさ。漂い来る灼けた枯草の匂い。

そんな全てにリアリティがあるし、何より眼前の景色は決して映像などでは無い。圧倒的なリアリティをもって迫ってくる。足元の草が風に靡き、素足につっかけたスニーカーの踝の辺りをくすぐる感覚までもが確かにあった。

ここではない何処か

松山に戻って以来、日を追って瞑想は深くなり、近頃ではかなりの確度で答え合わせができるようになっているが、それでも今回のように、肉体ごとビジョン(?)の中に入り込んでしまうなど想像したことも無かった。まだ状況が呑み込めないが、それでもここが、明美の知らない何処かだということと、そんな不思議な状況を創り出したのが瞑想に他無いことは分かっている。

目の前では、遠くなだらかな山並みが茜色に染まり禍時の始まりを告げている。振り返ればそこは、すでに闇に沈みこもうとする木々の向こうに夜が迫っていた。

ふと背後に視線を感じて闇を凝らすと、そこに、森が作り出す暗がりに半身を隠した少年(?)の姿を認めた。同じく少年も、明美を見ている。僅かな残照を背に伺い見れば、年齢は亜里紗と同じくらいだろうか、冷ややかな無表情の中にもあどけなさを残しているようだ。膝丈の衣の裾から覗く脛が、その華奢とは裏腹に力強く引き締まっている。

『…あの逞しい足で、この山野を駆け巡るんだわ』

これほど理不尽な状況にもかかわらず、少年に奇妙な親しみを感じていた。と、見る間に少年は、身を翻して樹間に姿を消した。

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「あっ、待って!」

見放されるわけにはいかない。思わず、明美自身が驚くほどの大きな声を出した。この奇妙な状況下で頼れるのは、唯一あの少年しか居ない。そう思い定めると明美は名も知らぬ森に踏み分けて行った。

のろのろと進む明美を嘲笑うかのように、少年の背が、樹間の闇に消えては現れる。

生い茂る羊歯に足を取られ滑らせながらも、木の幹や枝に腕を絡ませ這うようにして登っていく。その間も、もう駄目だと思う目の前に少年の背が現れ、無様に乱れた息が整う僅かな時を与えてはまた消える。どうやら少年は、明美を何処かに連れて行こうとしているらしい。

どのくらい登っただろうか、もう駄目だと思ったその時に目の前の景色が広がった。頭上には、それまでは木の間隠れに見えていた星々が、蒼い空一面に煌いている。カシオペアに凭れ掛かるようにして北斗七星が見事に拡がっていた。

『東京でもこんな感じだったかな…』

と、ここが日本と、さほど変わらない緯度に位置する場所であることを確認し、明美はホッと息をついた。視線を落とすと、手を伸ばせば届くほどの距離にあった少年の背中が、そんな明美を弄ぶようにガサガサと葉擦れの音を残して消える。そうして消えた闇の先は、さっきまでとは違って頭上が覆われていない。

しかし、やっと視界が開けたと思った目の前には、大人の背丈ほどの熊笹がみっしりと茂っていた。

「ねぇ…。ちょっと待ってよぉ」

ガサガサと熊笹を掻き分け進む少年に投げかけた屈辱的なプリーズが虚しくこだまする。

視界が開けて安堵したのもつかの間、明美は、さらに厳しい状況に追い詰められた。この先に拡がる熊笹の茂みを渡るには、これまで以上の困難を覚悟せねばならない。空には星が拡がり、少し先まで見渡せるからといって楽に渡れるわけではなかった。

笹藪に消えた祖母

明美の脳裏に、幼き日の祖母の姿が蘇ってきた。

あれはまだ、明美が小学校に通っていた頃。それでも高学年にはなっていただろうか…。

その日、微熱があるということで学校を休んだ明美が横になっていると、廊下の向こうでゴソゴソと音がする。退屈の余りに起きだしていくと。廊下を挟んだ祖母の部屋で、いつもなら座敷に居るはずの祖母が、押し入れの奥から風呂敷包みを取り出していた。

「どしたん」

興味本位にそう問いかけた明美に、祖母は振り返りもせずこう答えた。

「今日はお山に行かないかん日じゃけんな」

祖母の言う「お山」とは、明美の生まれ育った家のすぐ裏にある、地元では大友山と呼ぶ、標高400メートルほどの小山。大人になってこの山が、昔は「大砥山」と呼ばれ、それがいつしか「おおどさん=大友山」に変わっていったという事が分かった。地元の小学生が悪戯に登る山でしかない。その頃盛んに行われていた蜜柑栽培のおかげで、すっかり蜜柑に覆われた、子どもたちから「ミカン山」と呼び親しまれた里山だ。ひまを持て余していた明美は、瞬時について行こうと決め、いつでも追い越せる祖母の後ろに付いて歩いた。

しばらくは山仕事に使う道を行き、やがて厳しくなってきた斜面を、潅木の幹や枝を手に登っていく。すっかり息も上がった頃に、やっと開けた眼前に拡がっていたのが熊笹の林だった。

セルロース状の表皮を持つ茎はか細いが折れそうで折れず、ただ悪戯に撓み、撓むほどにいっそう強く戻ってくる。ほんの少しでも気を抜けば、たちまち勢いよく戻ってきた茎でしたたかに肌を打たれてしまう。その上、思いがけず鋭い大振りの葉は、むき出しの手足を切りそうに痛い。

その熊笹の中に入り込み、泳ぐようにして前に進もうとする度に、明美の身体は撓んだ笹の幹に持ち上がり、まるでマリオネットのように弄ばれる。

「…ばあちゃん、もう無理。身体が前に行かんのに」

そんな孫の声に引き返してくるかと期待した祖母から、

「…ほんなら、そこで待っとうき。…婆ちゃんは行かないかんけん。そこで大人しゅうしとき。じきに戻るけんな」

と、絶望的な声が戻ってきた。

それからの、人影も無い山の中腹で過ごした不安なひと時が今でも忘れられない。

今、目の前に広がる熊笹の林は、そんな明美の記憶を呼び覚ました。それでもまた、あの頃のように待ちぼうけするわけにも行かず、熊笹の密林を掻き分け掻き分け進む…。

優に一時間は悪戦苦闘しただろうか、途中何度も蹲り諦めようとするたびに現れる少年。最後はついに、そんな少年の差し出した手につかまり、よろけるように躍り出たそこは、暗がりの中にも開けた、山の頂とも思える樹間の広場だった。

樹間から零れる月明かりを背に少年が立っている。どうやらここで、苦難の道のりは終わりらしい。

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果たしてここが、いつの時代のどの辺りだか見当もつかない。ただ頭上に煌めく星々には見慣れた姿があるし、ここに至る山中でも見慣れない植物には出会わなかった。

見れば幾つかの小屋らしきものがある。そんな一番奥の小屋の前に立つ少年が、その場で少し身を屈めて手招きしている。

どうやらその小屋に入るらしい。少年の片手が押し開いた小屋の中から、薄ぼんやりとした紅みが闇に転げ出した。

半ば地面に埋もれた格好の小屋は、明美が出入りするにはかなり窮屈な感じがする。ましてや鼻を抓まれてもわからない暗がりへと足を踏み出すにはかなりの勇気を要する。わずかに紅く滲んだ辺りを目指し、誰が居るのかもわからない小屋の中へと、恐る恐る足を入れた。

口の大きな男

中に入ると、その暗がりは、決して外には漏れないほどの呻吟に満たされていた。獣のようで獣では無い。恐らくは歳を経た男の呻き声が聞こえる。どうやら男は、微かに紅の差す辺りに横になっているらしい。小屋の中は暗く、呪文のように響く低い声とくぐもった呻き声で満たされていた。

と、足元の紅が掻き混ぜられ、小さな火の粉が勢いよく舞った。瞬間、横たわった男と、その傍らに二つ、同じく大人の蹲る影が見える。やがて暗がりに慣れてきた目で改めると、明美の足元には男が一人横たわっていた。

横たえられた男のそばには、白く骨が浮き上がるほどに強く指の付け根を噛み締めて嗚咽を堪える女と、痩せた初老の男が胡坐をかいている。傍らに浅く掘られた炉で、熾きが時折紅く明滅することから初老の男が息を吹きかけているのがわかる。初老の男は、横に置いた黒い石に左手をかざし、表面でも撫ぜているのかゆっくりと手の平を回しながら、右手で苦悶に顔を歪める男の腹の辺りを乱暴に揉み解している。強烈な腹痛に襲われているのだろう横たわった男は、腹の肉を掴み上げられるたびに呻き声を漏らした。

「泣くな。お前の男は生かされる。心配するな。まだ、継ぐ者を残せていない」

治療をしているらしき初老の男が、その横でうろたえる女にきつく言葉を投げた。日本語のようでよくわからない言葉が、その意味だけが明美の脳裏に流れ込んで来る。

何度も何度も繰り返し掴み上げる腹部が、男の手が離れると同時に不気味に蠕動している。やはり、男の腹には何かが棲る。

どうやら、また瞑想中に抜けてしまったようだ。訪れた先は…。日本のような…。そんな気がする。

ビジョンの始まりで目にした、紅に彩られた稜線と田舎の風景は旅行雑誌かなにかで見た山間の村のような、それでいて故郷の、夕闇迫る道後平野が見せる景色のような懐かしさを感じさせた。

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何処だかは分からない。けれども、確かにが見覚えがある。同じ国に居るようで違う。そして、そこに居るのは同じ日本人では無いような…。現代人では無い。きっともっと古い時代の日本人。そんな気がした。

と同時に、祈祷師と思しき初老の男の顔を目にした瞬間、明美は思わず声を上げそうになった。なぜなら明美は、初めて目にするはずの、会ったこともないこの男を知っていた。そして男は、明美の顔を見ようともせず、当たり前のように頭の中に直接語りかけてくる。

『驚くことは無い。俺はおまえだ』

語りかけながらも、男の手はしきりに蠢くモノを捕らえようと横たわった男の腹に掴みかかっている。炉では、残りわずかな熾きが赤い明滅を繰り返している。

どれほどの時が経っただろう。小屋の中には呻吟が溢れ、男が明美の脳裏に語りかけてきたこと以外何一つ変わりは無い。横たわった男は、相変わらず苦悶に表情を歪めているし、女はただおろおろと泣きじゃくるばかりだ。

『…あなたは誰? ここでなにをしているの?』

『…俺はおまえだ。ここでは、口の大きな男と呼ばれている。なにをしておるかと…? 見てわからんか? 見ての通り、この男から蟲を追い出そうとしている』

『私になにか用があるの? どうして私を呼んだの?』

『間違えるな。用があるのはおまえだ。おまえが私に会おうとした。だからおまえは、ここに来た。私とは、いつか出会う運命だった。理由は知らん。おまえにはわかるはずだ』

〈口の大きな男〉と名乗った男の左手に置かれた石には見覚えがあった。幼い頃から、何度も夢で見たような気がする。そして、東京に置いてきた黒玉にも似ているような…。あの黒玉に比べると、男の石は子どもの頭ほどもあり、形や大きさこそ違ったが石が放つエネルギーというか気と言おうか…とにかく同じに感じた。きっと二つの石は、同じようなエネルギーを持っているに違いない。

時が、所が違うのかもしれない。しかし、これまで何度も繰り返した瞑想で、こんなことは一度も無かった。これまでの瞑想で得られるは、思い悩むことに対する痛烈な応えか、わずかながらの慰めだった。

まさかこんなことが起きるとは…。

明美は半ば夢見心地のまま、目の当たりにしているこの出来事が、異なる何処かで起きているもう一つの現実だと感じていた。それは普段、当たり前のように現実と思っている日常から、深い瞑想によって心身ともに解き放たれ辿り着いた、もうひとつの世界だった。

パラレルワールド

真印さんの言う「ビジョン」とは何なのか? これは真印さんと出会って以来、解けることのない謎である。彼女とおなじように、町には多くの悩める人たちを、答えに導く者がいる。しかし、従来の姓名判断や占星術の類は、統計学とデータ分析により導き出した傾向であると、容易に理解できる。しかし、真印さんのそれは、データ解析でもなければ経験則でもない。正しく、人には見えない何者かの姿を見、何者かの声を聞く能力である。果たしてそれは、一体何処に存在する意識なのか? オカルトやスピリチュアルに興味のある人は、それを「高次の存在」などと、解釈した気になっている。では「高次」とは何なのか? 一体何処に存在するのだろうか? 全ては謎に包まれたままなのだ。真印さんは「時間は帯のようなもの。そして、その帯はループしたり撓んだりしています。私は、そんな時間の帯と帯の間を行き来して垣間見ているだけなのかも」と言う。時を前後することによって生じる相似性の世界……これこそが俗に言う「パラレルワールド」なのかもしれない。

SILVA真印オフィシャルサイト

著者プロフィール

那知慧太(Keita Nachi)愛媛県松山市出身 1959年生まれ

フリーライターを経てアーティストの発掘・育成、及び音楽番組を企画・制作するなど、東京でのプロデュース活動を主とする。現在は愛媛県に在住しながら取材・執筆活動に勤しむ。『巳午』を処女作とする。

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