それぞれの2年目 #5「心に復興なんてない」井上誠(54)さん (後編)
■震災から一年目の日
昨年の3月11日は、朝から井上さんのご家族と過ごさせて頂いた。
報道の仕事としてではなくボランティアで撮影してきた私にとって、一年目のこの日をどのように過ごせばいいのか、分からなかった。誠さんに、そう正直に話すと、「一緒にお寺に行きませんか、翼も喜ぶと思います」と私を誘ってくれたのだ。
午前10時、津龍院(しんりゅういん)に到着。
「遺族は井上さんだけではありませんから、ここで静かに撮影してください」
若い住職さんは、私に会うなり、かなり厳しい口調でそう言った。
津龍院の本堂は津波によって流され、法要は仮本堂で行われた。人々は廊下まで溢れ、さらに入りきれず、外にもたくさんいるような状況。ここは人口17000人のうち800人以上が死亡または行方不明になった小さな町なのだ。歌津にあるもう一つのお寺「西光寺」も津波に流されてしまっている。取材に来ているメディアもいなかった。シャッター音さえ申し訳なく感じるような雰囲気だった。
後から知ったのだが、人望の厚かった前住職、館寺昌晴(66)さんは、人々の悲しみを一身に受け、震災の年の暮れに自らの命を絶ってしまった。誰もが重たい心を引きずりこの場に集まっていたのだ。震災を記録する係として、覚悟を決めて、この状況を写真として残した。
この年もお昼は井上さんのお宅でご一緒させて頂いた。
おばあちゃんのたくわんは絶品。その日の朝、漁師さんから頂いたメカブも調理してくれた。エメラルドの宝石のようにキラキラ光るメカブ。こんなに美味しいメカブを食べるのは生まれて初めてだった。東京で働く長女の晴香(23)さん、次女の彩(21)さんも一緒に食卓を囲み、皆の笑顔が溢れる大切なひと時を一緒に過ごさせてもらった。
「あ、あれは、翼じゃないか」
誠さんが突然、声を上げ、皆がテレビに注目した。
ニュースが映し出した映像は、津波が来る前に、南三陸町の職員が三階で整列している写真だった。
「翼だぁ、不安そうな顔をしているね」
妻の美和子さんは、どうにか言葉を発したものの泣き崩れた。二人の娘さんも唇を噛みしめ涙が頬をつたう。
「私は観ねぇよ。私はもういい」
おばあちゃんはそう言って席を外し、別の部屋で泣いた。
誠さんによると、前日、NHKスペシャル「もっと高いところへ~高台移転 南三陸町の苦闘~」でも、屋上にまさに津波が来る瞬間の写真が映し出されたという。流されないように円陣を組んでいる中に、翼さんの姿があった。そしてまたこの日、違う写真が放映された。この写真は、町職員の奇跡的に生還した広報担当者が撮影したもので、家族以外には公表しないと約束したものだった。誠さんは、怒りに震え、鬼の形相で仁王立ちしていた。
昼食後、翼さんの同級生たちが弔問に訪れた。誠さんにとっては、少年野球の教え子たちでもある。翼さんの遺影の下で、かつてのチームメイトと監督でもある誠さんが話をしている。「翼は幸せ者だなぁ。こんなにいっぱい仲間がいたんだもんなぁ」
誠さんは、時折、笑顔さえ見せた。優しく気配りができる翼さんにはたくさんの友人がいた。小学生の息子を持つ私は、誠さんの胸の内を想像するだけで、苦しくなった。
■心には復興なんてない
さらに1年の月日が経った。誠さんとはその後、何度か電話で連絡を取り合い、南三陸町に行く時には必ず、自宅に伺った。お互いにスポーツをやってきた同世代の男同士、いつしか私は、誠さんを兄のように感じるようになっていた。
「毎年この日はね。翼の友達やら親戚を呼んでね。いっぱい翼の思い出話をする日にしてあげたいんです。それでね、今日だけは思いっきり泣いても良いかなと思ってるんです」
今年は、前日の10日に、津龍院で法要をしてもらい、翼さんの友人や親戚を呼んで思い出を語ったという。
私は二年目の節目という事で、誠さんに話を伺う事にした。
ー震災当日の話を伺っても良いですか?
「勤めている警備会社の事務所が石巻市の日和山の裏手にあってね。そこも津波でかなりひどかったんだけど、家族とは連絡も取れないし心配で、3月12日の夕方、南三陸に徒歩で向かったんです」
ー50キロ以上あると思いますが、どのように歩いていったんですか?
「三陸道をずっと歩いていったんです。ちょうど25キロぐらいのところに津山町というところがあって、そこにある避難所に一泊しました。そして翌朝5時に起きて、南三陸町に向かいました」
ー三陸道は他にも歩いてる方がいましたか?
「いや、もともと人が歩いてはいけないところだからね。時々、緊急車両が通るだけで、私一人だけでした。星が綺麗だったけどね、スーツに革靴だったから、本当に寒かった」
ー南三陸には、すぐに入ることができましたか?
「朝7時ぐらいに町の入り口にある戸倉地区についてね。中心部はひどい事になっていたから、山道を通ってどうにか自宅に着きました。家には、女房と姉がいて、無事を喜びあいましたが、そこからが地獄でした」
ー翼さんの安否は役場の方に聞いたのですか?
「いやぁ、翼の同僚にも会ったんだけどね。向こうから何も言わないし、こっちからその時の状況を聞くのも怖かったし…。とにかくいろいろな避難所をぐるぐる回って、探しました。どこかの避難所で職員として仕事をしていないかなと思ってね」
ー翼さんが見つかったのはいつですか?
「19日に登米市にある遺体安置所に向かう途中、義理の兄貴から『翼が見つかったぞ』と電話があって、南三陸の遺体安置所だったアリーナに向かいました。嬉しいというより、もしかしたらという希望があったから、複雑な一報でしたね」
ーそして対面されたんですね
「人前では泣かないって、いつも思ってるんだけどね。今回だけはダメだった。『何やってるんだ。こんなところで』といってね。思いっきり泣きました」
ー翼さんを、ご自宅にすぐに連れて帰る事ができたのですか?
「すぐには連れてこられなくて26日に戻ってきたんです。『おかえり』っていってね。その隣の部屋に寝かせました。でも1〜2時間で出棺しなければいけなくて…。十分なことをしてやれなかったのが心残りです」
ーあれから今日で2年経ちますが?
「よく心の復興とかいうけどね。物とか町には復興があっても、心には復興なんてないんですよ。一生ものです。今でもね、一人でいるときは、泣きたい時には泣きますよ。一人で車を運転してるときとかにね、『なんで(翼は)いねぇんだべな』って、ふと思うんです。夢ならいいなぁって。で、泣くんです」
ー次女の彩さんが東京から戻ってきて、この春から町役場で働くとか?
「そうだねー。普段は女房とばあさんだけだから賑やかになるね。家には二人の娘がいて良かった。自分でいうのもなんだけど、いい娘たちですよ。育て方に間違いなかったって思います。二人が結婚して、孫ができたらね。孫のおっかけを女房とするのが今の夢なんです」
私はこの日、誠さんと2つの約束をした。それは、娘さんたちの結婚式には、必ず、カメラマンとして呼んで欲しいという事。そして、結婚式で誠さんが泣くところを写真に撮らせてもらうという事。
「えぇ、いいですよ。そりゃーもうね、皆の前で泣きまくりますよ。ハンカチ10枚ぐらい用意しなきゃね(笑)どんどん写真を撮ってください」
誠さんの笑顔の横で、翼さんが微笑んでいるように感じた。
写真・文 シギー吉田