「実名が報道されてしまったことで、患者家族が崩壊の危機にあるんです。医学の進歩で、このようなことが起こるのであれば、もう医学も何もあったものではありません」
今から30年前の1983年10月、記者会見で涙を流しながら訴える1人の男性がいた。国内初の体外受精による妊娠に成功した東北大学教授の鈴木雅洲(まさくに)先生(92・現スズキ記念病院理事長)だ。
功績をたたえる報道の一方で、批判も巻き起こった。当時、フラスコの中に赤ちゃんがいる合成写真が流布し、「試験管ベビー」といわれた。メディアや反対する団体は「生命の操作」「障害児の原因にも」などと報じ、追い打ちをかけるように1例目の患者の実名が一部新聞に出てしまったのだ。医療関係者の中にも「子孫に障害が現れるのでは」と、次世代まで結論は持ち越しとする意見も多く見られた。
現場の医師たちにも動揺が走っていた。体外受精の研究段階から鈴木チームに所属し、現在は仙台市で今泉産婦人科医院を開業する今泉英明先生(67)は言う。
「いかつい顔の先生が、大勢の前で泣くんだよ。患者を守るために、チームの中には離れていく医師もいたけど、あの会見を見て、オレは心中するつもりになったんだ」
鈴木先生自身、深い葛藤を乗り越えての会見だったと、当時を振り返る。「98%が反対意見。ある時期は迷いも半分くらいはありました」。病院や自宅にまで押し寄せる街宣車。学会出席は機動隊に守られて。しかし、半分の迷いを押し戻したのは、ずっと寄り添ってきた患者たちの姿だった。
「『どうしても赤ちゃんが欲しい』という患者さんが後を絶たなかったんです。そういう患者さんがいる限り、やはり私は禁止するべきでない、という結論に至ったんです」
そのとき、すでに2例目、3例目の体外受精による出産も続こうとしていた。3例目の患者、狩野昭子さん(仮名・68)は、医師やスタッフがバッシングの嵐に緊迫するなか、別の思いでいたという。
「1例目出産のニュースで、すごく希望が持てました」。体外受精は1回目、2回目と続けて失敗。3回目のとき採卵、受精卵の移植をしたのは今泉先生だった。そして妊娠が報じられたが、名前が出ることはなかった。医師自らが、マスコミの防波堤になり、出産は極秘に別の病院で行うことも決められた。’84年2月、39歳の高齢出産だったが、自然分娩で女児を出産。
これらの出産を見届けるように、翌年、鈴木先生が定年退職。その後は、日本初の体外受精専門病院であるスズキ記念病院を設立した。「自分のやってきた体外受精が、日本の臨床の場で必要とされるのか、その答えを自分の目で確かめたかった」とスズキ先生は言う。
スズキ記念病院開院直後、体外受精を受けて出産した1例目の患者が実名告白した。「こういうことを隠れてやるのはおかしい。体外受精を悪いことのように見られたら、赤ちゃんが欲しくても治療を受けられない」と。この看護師をしていた女性の勇気ある行動を境に体外受精への反対意見はピタリと止まったという。
技師長の立花郁雄さん(59)が言う。「鈴木先生はあまり気持ちを表に出されるタイプじゃありませんが、このときはほっとしたんだと思います。重圧もすごかったと思いますから」。
出産や不妊治療をめぐっては、今も日進月歩で新しい技術開発が行われている。しかし、医師たちの「お母さんに赤ちゃんを抱っこさせたい」という思いは不変だ。