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手術室に心拍数を知らせる電子音が響き、モニターには血圧や酸素飽和度の数値や波形が浮かび上がる。スタッフに「先生、準備が整いました」と声をかけられると、手術を見学する記者の緊張を緩めるように「あいよ」と軽く答えたポッポさん。手術用の帽子とマスクを身につけて、滅菌処理された使い切りの手袋をぱちんと音を立ててはめる。

 

ここは東京都杉並区の塩田動物病院の地下にある手術室。10歳になるメスのダックスフントの乳がん手術をするのは、ポッポさんこと院長の塩田眞さん(69)だ。

 

「20歳くらいのとき、ある議員の選挙運動のボランティアをしていてね。そのとき応援演説に駆けつけたのが婦人運動家で有名な市川房枝さん。退屈しのぎにオレが鳩の折り紙を折っているのを見て『あなたは鳩ぽっぽのポッポちゃんね』とあだ名をつけられたんだ。以来、みんなそう呼ぶんだ。海外でも覚えられやすいから。ただ、スペイン語ではウンコっていう意味なんだけど(笑)」(塩田さん・以下同)

 

ゆっくりと立ち上がり、手術台の前に立つ。今日の“患者”のおなかを指で触れると、ポコンと飛び出た直径3センチと2センチ、2つの腫瘍の感触を確認した。「体重は3キロ?このコの体のわりには、ずいぶん大きな腫瘍だねえ。うん、でも、大丈夫だ!」との言葉に銀色のメスを軽やかに握ると、無影灯に反射した鈍い光が、おなかの中にすっと吸い込まれていく。

 

出血したのは最初だけ。「よっしゃ、よっしゃ」と順調な手術に満足げなポッポさんに若い助手が「先生、ちょっと暑くないですか」と尋ねる。だが、ポッポさんは「大丈夫だよ。麻酔でこのコは低体温だから、このくらいが寒くなくてちょうどいい」と、いつも動物たちのことが優先。

 

塩田動物病院は、ほかの獣医が匙を投げた「面倒な手術」を持ち込まれることが多い。この日の患者を連れてきたのも長年付き合いのある獣医だ。

 

ポッポさんは手を休めることなく、瞬く間に卵巣、続けざまに腫瘍を摘出すると、素早く傷口を縫い合わせる。最後のひと縫いを終えて、糸をパチンとハサミで切る。普通なら1〜2時間かかるという手術も、40分ほどで終了。手術を依頼した獣医がすぐさまケージに入れて、飼い主の元へ引き渡しに行った。

 

「うちでは、大きな手術でも夜には飼い主に帰すのが基本。入院したら、夜、不安でかわいそうでしょ。そっちのストレスも犬猫には負担なんだ」

 

病院全体は昭和の薫り漂う雰囲気。地下に手作りしたという手術室には「昭和55年11月 八王子山王病院」とシールが貼られた年代物の麻酔器などが並ぶ。ポッポさんは、ほぼ毎日動物柄の服とスエットのパンツ姿、サンダル履きで病院にやってくる。髪は寝癖がついたまま……。失礼ながら“獣医も頼る名医”には見えない。

 

「そうだよ、オレは名医じゃない。難しい手術なんかしない。ただ、犬猫が苦しくないように考えて、工夫しているだけなんだ」

 

父親の代からの動物病院を継いで30年弱。ポッポさんは日本の動物医療の向上のために心血を注いできた。動物健康保険「アニコム」の設立に尽力。社名の名付け親で、対応病院第1号でもある。日本で初めて動物専用のドクターカーを導入し、24時間対応の救急往診体制を敷くなど、動物にも人並みの医療体制を施してきた。

 

「日本の獣医学はまだまだ伸びしろがある。ただ技術を追い求めるばかりではダメだと思うよ。ウチの病院には『教科書に載っていない手術法が見たい』と若い人がよく研修に来るんだけど、可能な限り“医療哲学”も伝えていきたいね。難しいことじゃない。注射ひとつとっても、薬剤にお湯をかけて人肌に温める。そうすると痛みが少ないんだ。そんなの誰だってできるだろ」

 

ポッポさんが目指す動物医療は知識と技術、そして“心”で接する。だから、塩田動物病院に集まってくる人たちも、患者である動物たちも、温かい気持ちになるのだ−−。

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