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(撮影:加藤順子)

 

「うちの夫は、『鍋食いてえ』って言いながら、食べると泣いてます。いまも、あの日から時間が止まったままなんです」

 

2011年3月11日に発生した東日本大震災の津波で、全校児童の約7割にあたる74人もが犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校――。

 

震災と津波で長女の麻里さん(享年18)、二女の理加さん(享年17)、そして大川小6年だった長男の大輔くん(享年12)の3人の子供全員を奪われた今野ひとみさん(47)は、冒頭のように語った。夫の浩行さん(56)は、遺族訴訟団の団長だ。2人はともに石巻市生まれ。

 

「大輔は体も大きくて柔道もやっていましたが、家では、『おっかあ、一緒に寝っぺ』と私の布団に入ってくるような、甘えん坊の男の子でした」

 

この上ない絶望のなか、長い裁判を団長として闘うストレスも大きかったに違いない。

 

「夫の心臓は一審で勝っても、県や市がまた裁判すると言い出したころから、おかしかった。酒やタバコも増えたし。それで去年7月、人工心臓弁の移植手術を行いました」

 

14年3月に23人の児童たちの遺族である19家族が起こした裁判は、いまも継続中だ。遺族が宮城県と石巻市を相手に約23億円の損害賠償を求めて起こした民事訴訟では、16年10月に県と市に約14億3千万円の支払いを命じる一審判決が出たが、被告、原告ともに控訴している。裁判について、浩行さんはいまから「その先」を見据えていると語る。

 

「そもそも裁判したのは、『何が起こったのか』という真相究明だったのが、控訴審では争点が『事前の防災対策が十分だったのか否か』に変わってきた。学校だから、子供を守るのは当たり前なのに。でもね、勝たなければいけないんです。裁判で被告の責任が認められれば、そこから、事故の検証や、行方不明の子の捜索、A先生との対話などに進んでいく土台になるから」

 

3年生だった健太くん(享年9)を失った佐藤美広さん(56)と、とも子さん(54)も、訴訟団のメンバーだ。夫婦の姿は昨年8月、阪神甲子園球場にあった。

 

「もし、健太が高校生になって野球を続けていたら……」

 

息子の遺影を手に夏の高校野球の選手宣誓を聞きながら、ふたりは涙を抑えることができなかった。2度の流産の末に授かった最愛のひとり息子。

 

「幼稚園のころから大人びていて、近所のおじいさんからも『健太くん、しっかりしてるな』と褒められるほどで、自慢の息子でした」

 

少年野球チーム「大川マリンズ」では、セカンドと外野のポジション。だが、もう父とのキャッチボールもできない。

 

「船舶に関わる仕事柄、最初の学校説明会では、『学校を船にたとえれば、船長は全責任を負うんだ』と言いました。健太は9歳で夢も命も奪われたのに、教師、校長、学校、教育委員会……あんな隠蔽がまかり通ってはダメだと思った」

 

美広さんも、裁判中の14年12月にがんを発症している。

 

「私は15年に3度、手術しています。がんや大病をしている遺族も多いんですよ。それでも一審で勝ったあと、『まだ金が欲しいか』と、すれ違いざまに言われたこともありました」

 

とも子さんは、今後についてこう語る。

 

「何を言われても、健太の存在をなかったことには絶対させない。4月に出る判決がどうであれ、『お父さんとお母さんは最後まで頑張ったよ』と報告できる日まで、終わることはないんです」

 

震災当時、同校5年生だった二女の紫桃千聖さん(享年11)を亡くした紫桃さよみさん(51)は、最後に次のように強調する。

 

「千聖が帰って来ないという事実は、認めざるを得ない。それでも裁判をするのは、母として、あのときの千聖の状況や感情を、自分の子供の最後を知りたいだけなんです。これ以上、私たちのような悲しみを、ほかの親御さんたちにしてほしくない。負けそうなとき、千聖が、『ママとパパが果たす役割があるでしょ』って言っている気がして……」

 

高裁判決はひとつの区切りだが、それで遺族たちの闘いが終わるわけではない。真相究明は、ずっと続いていくのだ――。

 

(取材:鈴木利宗、加藤順子)

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