奈良県橿原市にある女性専用の依存症からの回復支援施設「フラワーガーデン」。アメリカで確立された「治療共同体」の手法を取り入れた日本初の施設で、現在、10~60代までの入居者18人が、共同生活を送りながら回復プログラムに取り組んでいる。

 

壁も本棚も白で統一された簡素なワークルーム。講師を務める施設代表のオーバーヘイム容子さん(36)は、テーブルを囲んだ女性たちに視線を送りながらこう語った。

 

「依存症になりたくてなる人はいません。せっかく依存症である自分を受け入れ、お酒をやめて回復プログラムに入ったんだから、あとは仲間とともにクリーンタイム(断酒期間)を続けていくだけです」

 

現在、アルコール依存症は全国で109万人、うち女性は約14万人で、予備群まで含めると294万人との厚労省データも。また女性はホルモンの関係で、量も期間も男性の半分で常習者になりやすいとされる。

 

「現場の実感としても、女性のアルコール依存症は、ギャンブル依存や買い物依存とともに急激に増えています。夫や恋人との関係、子育て後のむなしさなど、なにかと寂しさに敏感な女性は依存症に陥りやすいのです」

 

容子さん自身、依存症からの回復を果たし、10年以上のクリーンタイムを過ごしながら、家族の問題をきっかけに再び酒に溺れる日々に逆戻りするつらい経験をしていた。

 

「いまも“飲まない今日”を一日一日積み重ねています」

 

自身もまだ回復の途上にあると打ち明ける。依存症との共存の日々のなか、ふと後戻りしそうになる彼女を支える「希望」とは――。

 

容子さんは’81年生まれ。群馬で4代続く、老舗の旅館に育った。

 

「宿泊客の夕食を終え、家族の時間になったと思ったら、酔った両親が父の浮気などを巡ってけんかを始め、6つも年上の兄や姉たちはスッといなくなる。ずっと、和やかな家族団らんが憧れでした」

 

酒が常にある旅館という環境で育った容子さんが、最初に手を出したのがビール。10歳だった。

 

「たばこも10歳。中学生になり、バイト学生の飲み会があると、旅館の娘の特権で『私も入れて』と。早くも男性にも依存していて、初体験も12歳でした」

 

同じころ、兄の先輩の女性Yさんを慕うようになり、クラブ通いが始まる。

 

「いま思うと、彼女との関係も過剰に依存し合う“共依存”。覚醒剤を体験するのもクラブでは自然の流れで、違法と知るころには、もうやめられなくなっていました」

 

中学卒業後は、競技スキーの推薦で商業高校へ進学。

 

「簿記の試験前には、覚醒剤で眠気を覚ましたりも。スキー部は退部しても夜のクラブ通いは続き、すでに摂食障害も始まっていました」

 

1つの転機は、親友の裏切りだった。自傷行為でリストカットなどを繰り返す容子さんから女友達が離れていったことで、かつてない深い孤独を感じるようになる。

 

「“死にたい”と“死ねない”の葛藤の繰り返しが半年ほど続いた末に、ずっと音信不通だったYさんに、すがるように連絡しました」

 

すると、彼女も依存症に苦しんだ末に地元の自助グループに通っており、そこへ容子さんを連れていったのだ。

 

集団ミーティングで、「死にたい。学校に行くのがつらい」と訴える容子さんに、同じ悩みを持つ人たちは、「学校なんて、行かなくていいんだよ。容子ちゃんの命がいちばん大切なんだから」。救われた、と思った。

 

「自分を認めてくれたこのひと言は、10代の私には大きかったですね。1年かけてアルコールと薬物を体から追い出すことができたんですが、正直に言うと、人への依存は変わらなくて、生きづらさは抱えたままでした」

 

高校を卒業後は、上京して外国語専門学校へ。ここも長くは続かなかった。19歳での同棲を機に中退、すぐに結婚したからだ。相手は外国人で、自助グループのイベントで知り合った13歳年上のアメリカ人だった。

 

「10代での結婚を父などは猛反対しましたが、私にしたら、ずっと夢見ていた家族の団らんが手に入るかもしれないとの淡い期待もありました」

 

バイク関係の仕事をする夫はヘルニア等の持病を抱えているうえにアルコールや薬物など複数の依存があり、自助グループに通い続けていた。

 

「妊娠初期は幸福感もありましたが、出産が近づくと、また依存症体質の負の部分が出てきたんです。どうせ私は元依存症で、19歳の若さで結婚、しかも国際結婚などと、ほかのママたちと比較して、悪いほうへ自分をラベリングする。すべての根っこは、自分自身を肯定できない苦しみでした」

 

’01年、長女が誕生。3年後、次女を出産したが、夫との溝が徐々に広がり離婚。そんなとき、以前から関心のあった外資系スーパーが地元で開業することになり、面接を受けた結果、総務系の仕事で採用となった。すべてがうまくいく、はずだった。

 

「やりがいはありましたが、とにかく仕事がハード。このまま学童保育と職場の往復で終わるのかと悩みながらも、この選択をしたのは私自身。もっともっと強いシングルマザーにならなきゃとの思いで踏ん張ったんですが……」

 

ある日、気付いたら、1杯のワインを手にしていた。10年以上やめていたアルコール依存の日々が再開。飲まなければ出社はもちろん、子どもを学校へ送り出すこともできなくなっていた。

 

「もっとしっかり。あなたはお母さんでしょう」と自分に言い聞かせて、地元の自助グループに通い始めたころ、旧知の矢澤祐史さん(42)から、電話が入る。

 

矢澤さんは、’05年に奈良の施設を第1号として開設していた、依存症回復支援を行うワンネスグループの創設者である。自身も薬物依存からの回復者であり、容子さんとも、もともと20代のころに自助グループで出会っていた。

 

彼は「奈良においでよ。そこで、自分の経験を生かして働いてみないか」と言った。娘たちも、「ママが決めたなら」と後押ししてくれ、’13年春、母娘は知り合いもいない奈良へと移り住んだ。

 

まずは、矢澤さんが開設した男女向けの依存症回復支援施設を手伝いながら、同時に自身のトラウマと向き合った。それでもまだ2度目のアルコール依存の苦しみは深く、なかなか完全には立ち直れずにいた。

 

「正直、頭のどこかに、まだ『お酒さえ飲まなきゃいいんでしょ』との気持ちがありました。でも初めての土地で、私も思いを言葉にして出すのが下手で、ストレスをためていたんでしょうね。食べられなくなり、とうとう倒れてしまうんです」

 

運び込まれた病院のベッドで栄養剤の点滴を受けながら、ふと思った。

 

「私、何やってるんだろう。そうか、お酒うんぬんじゃなくて、この生き方を変えない限り、同じことの繰り返しなんだ。よし、新しい人間関係作りから始めてみよう」

 

これこそ、容子さんに訪れた“底付き体験”だった。依存症では、苦しみの限界に達した本人が「依存対象をやめる以外に救われる道はない」と自ら悟ることが、回復への大きなターニングポイントとなる。

 

こうして少しずつ自信を取り戻していくなか、女性専用のフラワーガーデンがオープンしたのは’14年6月だった。

 

「矢澤から『代表に』と言われたときは正直、戸惑いました。でも、新たな出会いをするチャンスだと捉えました。そして開設してすぐに、心からよかったと思えたんです。というのは、それほど切羽詰まった人が次々にやって来たから」

 

幻聴・幻覚に苦しんだり、心身ボロボロの状態で駆け込んでやって来る女性たち。

 

「『とうとう島流しにされた』『あたしの人生はここでおしまい』と絶望していた人が、共同生活をして、回復プログラムを体験していくなかで着実に変わっていくんです」

 

日々、自分を取り戻していく女性たち。

 

「そうか、人は変われるんだ。依存症は治らない病気と思われているけど、回復はできる。そして仲間がいれば、クリーンタイムを一日一日延ばしていくこともできる。そこに、希望があるんだ」

 

そんな女性たちの姿に、容子さんもまた救われていた。

 

「いまは依存症になってよかったと思います。あんなに嫌いだった自分を好きになれましたから。そうそう、偶然なんですが、今日5月16日が、私の2回目のクリーンタイム記念日なんですよ。お酒と薬物をやめて6年がたちました」