「よくもまぁ、こんな年までずうずうしく生きてきたものやなぁ。自分でもびっくりするわ」

 

大阪府吹田市。ここに「皇寿を迎え、なお現役の書道の先生がいる」と聞いた。「皇寿」とは数え111歳の長寿の祝いのこと。つまりは、満110歳の、現役の書道教師がいる……にわかには信じ難い思いを抱えたまま、記者は現地に赴いた。

 

「あなた、東京から? わざわざどうも、ありがとうね」

 

菅谷藍さん(110)は、少し曲がった腰をさらに折り畳むようにして、深々と頭を下げ迎えてくれた。張りのある肌。頬はツヤツヤ、プルプルで、部屋の照明を浴びてキラキラ輝いて見えた。シワの少ない顔に、ほんのり紅もさしている。

 

「お化粧、すごくきれいになさっていますね」と声をかけると、即座に「汚ないわよ」と反論、そして照れ笑い。

 

「記者さんがいらっしゃるというから、ちっとは何かせなならんと。でもやっぱり100歳超えたら、若いころのようにサッとはいかんね」(菅谷さん・以下同)

 

毎日、化粧は欠かさないという。

 

「誰がしてくれますの、こんな顔を? 化粧なんて、なんでもないですよ、朝、顔洗って、ついでにちょちょっとするだけだもの」

 

菅谷さんは110歳のいまも、病院でも施設でもなく、自宅で一人暮らしを続けている。

 

「近所に私より年上の人は誰もいない。健在でも皆、老人ホームね」

 

ましてやこの年代で、自宅で書道を教えている人など、大阪中、いや日本中探してもいないはずだ。

 

「だろうね……いつだったか市長が訪ねてきて。私のこと見て『びっくりした!』なんて言うんだ。だから言ってやったの。『驚いてないで表彰せないかんよ』って」

 

山形県長井市。ここが菅谷さんの生まれ故郷だ。記者が「明治41(1908)年5月生まれですよね?」と生年月日を改めて問うと、「わかってるやろ。そこまで知っててなんで聞くのよ(笑)」と菅谷さん。

 

「長寿は自慢してもいいことなんだから、堂々と生年月日を言ったらいいんだろうけど。なんとなくね〜、女っちゅうもんは1つでも若く見てもらいたい、言ってもらいたいもんなんだ(笑)」

 

名家の出で群長を務めた父と、文学好きの母の間に、8人きょうだいの四女として生を受けた。幼いころからの夢は「作家になること」だった。高等女学校を卒業し、昭和7(1932)年、菅谷さんは24歳で結婚。

 

ところが、幸せな日々は長くは続かなかった。結婚からわずか4年。夫が結核に倒れてしまうのだ。29歳で夫を亡くし、子どもをもうけることはかなわなかった。ひとり残された菅谷さんは、絶望の淵でペンをとった。

 

「結婚中は夫の世話や看病に忙しく、作家になる夢なんて、すっかり忘れておった。でも、夫に先立たれ、なんにもやる気が起きなかった私が唯一、できたのが文章を書くことだった」

 

菅谷さんは、新たに書いた小説で懸賞に応募した。

 

「懸賞には通らんかったけれども、『特別にあなたの小説を雑誌に載せてあげますよ』と言われて。わずかですけど原稿料っちゅうものまでいただいてね。うれしかったね」

 

夢が大きく花開こうとした矢先、事態は再び暗転する。日本が戦争に突入したのだ。

 

「当時、うんと人気のあった女流作家の大庭さち子さんという方と私は親しくてね。戦中、自由にものが書けないなか、2人して書いたものを1冊の本にしたことも」

 

戦火が激しくなると、菅谷さんは挺身隊の隊長を任ぜられ、軍需工場でジュラルミンを削って飛行機の部品を作ったという。そして昭和20(1945)年。大阪も空襲に遭い、菅谷さんも焼け出され終戦の日を迎えた。

 

「妹も夫が満州に行ってしまっていたから、一緒に吹田で暮らし始めて。家主から『土地もつける、安くするから買ってくれ』って言われたの。それで、いま暮らしているここを、当時はいまより小さい平屋だったけど、買ったんです」

 

女所帯の暮らしを守るため、菅谷さんは懸命に執筆を続けた。昭和22(1947)年からは神戸の夕刊紙『神港新聞』に小説『夕顔夫人』を連載もした。「作家になる夢をかなえたんですね?」と、記者が問うと……。

 

「夕顔夫人? つまらない小説よ。いま振り返ると、なんであんなもの書いたんやろう、と思う。そのうち、ほかのものもだんだん書けなくなって。書きたいものも見つからず、興味もうせていって。『これはいかん、新しく誰か先生につこうかな』なんて考えたりもしたけれど、果たしてどの先生に教えを乞えば、というのもわからなくて。それで結局、私は本物の作家になりそこねたっちゅうわけ(苦笑)」

 

それでも執筆で生計を立てていた昭和33(1958)年、菅谷さんは運命の出会いを果たす。それは、菅谷さんの知人が彼女の書いた文字を見て、発した「こんな下手な字、見たことない」という一言がきっかけだった。菅谷さんは顔から火が出そうだったが、気丈に言い返した。

 

「よう、そんなこと言うもんだ。そんなん言うなら、誰か私の字を上手にできる人を紹介してよ!」

 

すると、その知人は「では、参りましょう」と菅谷さんをすぐ、ある場所に案内した。そこにいたのが、日本春秋書芸院の総裁だった故・西田王堂氏だったのだ。

 

「当時、全国の小中学校の習字の教科書は全部、王堂先生が書いたものだった。それほど高名な書道家にいきなり引き合わされて。面食らった私は、そこから書道を始めるんです」

 

稽古を始めて数年が経過したころ。王堂氏は菅谷さんにこう告げた。「早く仕事やらんかいな」と。

 

「先生の言う仕事とは、書道を人に教えるということだった。『そんなん無理です』と答えたんだけど。『早く弟子を取りなさい。教えるということは習うこと。それもあなたの修業になる』って。それで、自宅で書道教室を聞くことにしました」

 

それはいまから57年前。菅谷さん、53歳のときだった。

 

「書道教室の皆さんとお話ししてると楽しいしね、長生きするっちゅうのも、まんざらでもないな、と思うね。でも、だからといって、私はなんぼまで生きようとか、小指の先ほども思ったことないの。生命は天から授かったものだと思っているからね。だから、自分でなんぼ生きようと思ったところで、それまでの命だったら、病気や災害、事故で不意に逝ってしまうかもしらん。それは本当、古いことを言うようやけど、神様だけが知ってらっしゃることなのよ」