今年7月、自民党の杉田水脈衆院議員が月刊誌に「LGBTは『生産性』がない」と寄稿し、直後に谷川とむ衆院議員が「(同性愛は)趣味みたいなもの」と発言したことを受け、朝の情報番組『スッキリ』(日本テレビ系)のコメンテーターとしても知られているロバート・キャンベルさん(61)は自身のブログで反論を展開。そのなかで、20年来の同性パートナーの存在を明かしている。

 

「昨夏のことです。13歳まで育ったブロンクスに行き、半日、ブラブラ歩いたんです」

 

約40年ぶりの故郷。キャンベルさんが知る人は1人も残っていなかったが、幼少期を過ごしたアパートは健在だった。

 

「5フロア(5階建て)、ノーエレベーター。貧しい人の代名詞のようなアパートメントでした」

 

ニューヨーク(以下、NY)市ブロンクス区。’57年9月、キャンベルさんが生まれた町だ。ブロンクスには移民が多い。彼の祖父母もアイルランドからの移民だった。

 

「海を渡ってNYまでやって来て、最初にたどり着く、つまり“食らいつく”拠点がブロンクスです」

 

“食らいつく”という表現に、移民の切実さがこめられている。アイルランド系だけでなく、ユダヤ系、アフリカ系など、さまざまな人種が“食らいついた”ブロンクスでは、各国の移民がそれぞれの文化や習慣を維持したまま、交じり合うことなく暮らしていた。

 

「教会が、アイルランド系の人たちの生活の中心でした。私もカソリックの洗礼を受けていて、朝7時からミサの手伝いをしていました。それが終わると、隣にある学校で学びます。学校内は、ほぼ100%アイルランド人です。日曜は、私の周りのすべての人が教会に行き、大人の男たちは午後から、近くのバーへ行く。教会を中心に町があったのです。母はアイルランドの『ジグ』と呼ばれる踊りの名手でしたね」

 

母は、アメリカ生まれ、法律書専門の出版社で社長秘書として働いていた。父は物心ついたときから、家にいなかった。

 

「父の不在は、私にとって自然なことでした。ただ、カソリックでは離婚を認めないため、母は離婚ができず、新たな人生を切り開くことができずにいました。それでも母は絶対に涙を見せなかったし、小さいとき僕はいつも母の味方でした。母と僕は性格が似ていて、愉快と感じる部分が同じ。だから、いつも母が楽しくなることを望んでいました」

 

7歳から、夏休みは2カ月間、ニューハンプシャー州のサマーキャンプで過ごしたが、そのたびにホームシックにかかっていた。

 

「私が寂しいというより、自分がいないと、母が寂しいんじゃないかと思って、早く帰りたかった。母はとても社交的な人だったけれど、『もともとお母さんは寂しいんじゃないか』と思うこともありました」

 

13歳のときだった。サマーキャンプから帰ってきた彼に、母は突然、こう言った。

 

「ロビー、話があるの。会社の同僚のロニーと結婚しようと思うの」

 

20分ほど、ソファでキャンベルさんの反応を確かめるように話すと、母はこう切り出した。

 

「実は今、下のレストランで待たせているけど、会う?」

 

初対面の継父は、ワイルドな人だった。

 

「アイルランド系は、貧しくても身だしなみにはうるさいものですが、ユダヤ系ということもあって、彼は自由人。カーキ色のつなぎとカットソーというスタイル。ひげを生やしていて、ゲバラみたいで、すごく明るくて」

 

彼は弁護士資格を持っていて、母が勤める出版社で、法律関係の書籍の編集者をしていた。

 

「母は今までの生活では見せてこなかった顔をしていました。すでに、母と継父、2人しかわからないジョークとかがあって、2人の関係が深まっていることは、僕にもすぐにわかりました」

 

母の再婚には驚いたものの、不安はなかった。子どもが感じがちな複雑な思いも、母を取られるという嫉妬も湧いてこなかった。

 

「親離れの時期だったのかもしれません。でも、何よりも、母を支える人ができて、僕はとても安心できたんです」

 

継父は、親父風を吹かすこともなく、キャンベルさんを尊重しつつ、いろいろ教えてくれるリベラルな人。すぐに「ロニー」「ロビー」と、呼び合う仲になっていた。

 

「13歳で、僕は世の中を探索するほうに目が向いた。母の再婚をきっかけに、アイルランド系の閉塞した居住空間から、自由に、はじけていくことになったんです」

 

母の再婚から1年半後に妹が生まれ、家族4人になった一家は、新しい職を求めてイギリスに渡り、その後、パリに移住。しかし、1年半ほどでアメリカに戻っている。15歳で、サンフランシスコに引っ越したころには、キャンベルさん自身にゲイである自覚はあった。

 

「中学以降、好きになるのは同世代の男の子でしたから。サンフランシスコには、性的マイノリティが集うコミュニティがあったので、僕は孤立することもなく、葛藤や悩みもありませんでした。母は、そのころから僕の性的指向を把握し、理解してくれていたと思います。高校で仲よくしていた同級生が僕のボーイフレンドだと、敏感に察知していましたから」

 

彼から電話がかかってくると、母は、キャンベルさんに代ろうともせずに、2人で楽しそうに長電話をしていたそうだ。

 

「母は、僕が大切にしている人と僕の間に入りたがる人(笑)。継父は放任主義でしたが、理解のある温かい人でした」

 

彼の性的指向をスルリと受け止め、尊重してくれた両親がいて、キャンベルさんは、その後も自分らしく人生を歩んでいく。

 

進学した高校に、アジア系の生徒が多かったことから中国語を学び、カリフォルニア大学バークレー校時代には、建築や映画などの日本文化にも傾倒していった。日本美術史入門講座で、桃山時代の『洛中洛外図屏風』を見たときには、強い衝撃が走った。

 

「車のライトに照らされて動けなくなった小動物のように、僕は固まってしまったんです」

 

講師のアドバイスもあり、その感動をより深めるために、集中講座で、日本語を学んだ。大学3年のときには、1年間、東京に留学。谷崎潤一郎や三島由紀夫を日本語で読み、日本文学の面白さを知った。

 

「日本に関わる仕事をずっとやっていきたいと思ったんです」

 

帰国後は、ハーバード大学大学院で、江戸時代の日本文学史の構築に精力を傾けた。27歳で留学した九州大学では、江戸時代の小藩の学者や俳人、画家の板本など、未紹介の原資料を調査し、整理する仕事に携わった。

 

「これが運の尽きというか(笑)。僕の人生を決めてしまった」

 

原資料と格闘しながら、新たな発見ができることが面白く、没頭するうちに、2年の予定だった日本滞在が10年になっていた。九州大学の専任講師から、教師としての仕事も得て、日本文学研究者の道を着々と上っていった――。

 

現在、東大名誉教授で、国文学研究資料館館長を務めるキャンベルさんの、カミングアウトに対する世間の反響は大きかった。

 

だか、親しい人にとっては、ずっと昔から周知の事実。キャンベルさん自身も、あえて公表する必要はないと考えていた。

 

「私は、カミングアウトをしても、しなくてもよかったと今も思っています。ただ、反響が大きく、勇気をもらったという人も多かったので結果としてよかった。杉田議員は、自分の性的指向や性自認をどう表現していいか迷っている若い人や弱い立場の人、その親や親しい人をすごく苦しめることを書いていた。だから、私の経験やバックボーンからしても、それは間違った見解だと、反論しなければならなかったのです」