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4月の東大入学式での祝辞が、またもや日本中に賛否両論を巻き起こした日本の女性学、ジェンダー研究を牽引してきた第一人者が、新時代の女性の生き方を語る――。

 

「私が、物議をかもしては、WANのアクセス数の増加に貢献しております、理事長の上野千鶴子でございます……フェミニズムは、日本の美しい伝統を破壊し、家族を壊し、少子化を推し進めた戦犯と言われまして、私のような“おひとりさま”は生産性のない非国民でございます(笑)」

 

5月18日午後、京都の同志社大学で開催された女性支援のNPOであるWAN(ウィメンズ・アクション・ネットワーク)の創設10周年記念シンポジウムの冒頭で、挨拶に立った上野千鶴子さん(70)。

 

小柄な体に、いまやトレードマークの真っ赤に染められた髪の毛がよく似合う。毒あり、ユーモアあり、そして問題提起を含む話しぶりで、一瞬にして会場の女性たちのハートをつかんでしまった。

 

日本の女性学やジェンダー研究を牽引し、近年は介護分野のエキスパートとしても知られる。研究のかたわら、ベストセラー『おひとりさまの老後』や、かつてのアグネス論争のように、出版や発言のたびに議論を呼び、論客として、学会だけでなく一般でも有名だ。

 

その上野さんが社会に投げかけた真骨頂ともいうべきスピーチが、この1カ月ほど前にもあった。4月12日に日本武道館で行われた東京大学の入学式。東大名誉教授としてステージに立った上野さんの祝辞が、またも日本中で賛否両論を巻き起こしたのだ。

 

「男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。女子は子どものときからかわいいことを期待されます……だから女子は、自分が成績がいいことや、東大生であることを隠そうとするのです」

 

女性差別が明らかとなった東京医科大学の不正入試問題や、自ら切り開いてきたフェミニズムの歴史を織り交ぜながらの祝辞は、力強く、こう結ばれた。

 

「フェミニズムは、弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です……。未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。異文化をおそれる必要はありません。人間が生きていくところでなら、どこでも生きていけます」

 

話題作を次々と送り出し、論争では“不敗神話”を持ち、学生からは「いつ寝てるの」というワーカホリックぶりを驚嘆される強い女性、上野さん。

 

「父は内科の開業医でした。家庭ではワンマンの亭主関白で実は小心者という、典型的な日本の家父長ですね。それを専業主婦の母が耐えつつ支え、父方の祖母が同居で嫁姑問題もあって。私は、5つ年上の兄と、2つ下の弟にはさまれた一人娘で、ねこっかわいがりされました。いわばペット愛ですね」

 

1948年7月12日、富山県に生まれた上野さん。活発で、超がつくほど好奇心旺盛。夏休みの課題で、家の前の道路に小銭を置いて物陰から人間観察したことも。高校入学と同時に、家族で金沢に引っ越して、石川県立金沢二水高校へ。

 

「中学、高校と、生徒会の活動をしました。中学では副会長。あの当時、女子は会長にはなれませんでした。高校で議長というのは生徒会長だった男子の陰謀でね、上野を黙らせるには議長をやらせるのがいいと(笑)。医師を志した時期もありましたが、卒業のころには方向転換していました。父の人生を見てて、楽しそうに見えなかったから」

 

京都大学文学部に入学して、18歳で家を出た。

 

「入学してすぐは、アウトドア好きのワンゲルの女子部員でした。ところが、すぐに学園闘争が始まるんです。秋には文学部の同期生の山崎博昭君が羽田闘争で亡くなる。私が生まれて初めて参加したデモが、彼の追悼デモでした」

 

大学院に進んだのはモラトリアムだった、と振り返る。

 

「学園闘争のあとは、もう朝起きるのもイヤ、就活もイヤで、1年くらい死んだも同然の状態でした。加えて、あの当時、女が院を出ても就職はなかったんです」

 

そんなとき参加したのが、京都の日本女性学研究会だった。

 

「それまで女性学って、日本では影も形もありませんでした。’77年から’78年にかけて、そうした民間の団体が出てきたんです。ただの仲よしクラブじゃないですから、研究プロジェクトを組んで勉強会をやる。調べると、次々と疑問や怒りが湧いてくる。月経用品や出産の歴史など、毎日が発見の連続、誰もがパイオニアでしたから、こんなにおもしろいことはなかった。なにより集まった女性たちが自立していて、大学以上に刺激的でした」

 

’82年には、本人が“処女喪失作”と呼ぶ『セクシィ・ギャルの大研究』で華々しく著者デビュー。その後、アグネス論争を経て、30代を迎えてまもなく京都の平安女学院短期大学の専任講師に。

 

「一般教養の社会学の講師としての採用でした。18~19歳の生徒を前に専門用語は使わないと決めて講義したら、ウケたんですよね。あのコたちは、偏差値優等生とは違って体で反応するから、おもしろければ身を乗り出すし、つまらなければそっぽを向く。ここで教師として鍛えられました」

 

このころ、出会ったのが、短大そばにあった日本初の女の本屋『ウィメンズブックストア松香堂』の設立者である中西豊子さん(85)。WANの創設メンバーでもある。

 

「上野さんは、鋭い感性と行動の人。うちの本屋に来て、女性の体の本が上の棚にあるのを見て、初対面なのに、『こういう本こそ手に取りやすい下にあったらええのに』と言ったのを覚えてます。はい、すぐに棚を移しましたよ」

 

しかし、まだ女性学の看板は掲げられなかった、と上野さん。

 

「最初は大学の自主講座からで、本当に苦労しました。新しいカリキュラムを作って、予算を立てて教授会に提案しなきゃならない。男性教師から、『女性学、それは学問ですか?』と言われて流した悔し涙は、今でも忘れません」

 

東大文学部に招かれたのが’93年春。すでに『スカートの下の劇場』『家父長制と資本制』などフェミニズムの名著も出版しており、名実ともに、スター学者となる。

 

東大・上野ゼミのOBで、一番弟子といわれる武蔵大学社会学部教授の千田有紀さん(50)はこう話す。

 

「上野先生に接した人は、2種類に分かれます。憧れる人と、『ああはなれない』と諦める人。私は後者。あるとき私の研究が批判されて泣いていると、『そんなことで傷つくくらいなら、やめなさい』と叱られました」

 

先生はどうしてそんなに強いのかと尋ねたという。すると……。

 

「私だって、初めから強くはなかった。打たれて、打たれて、ここまで来たんだから」

 

千田さんは、冒頭のWANのシンポジウムで基調講演を行っていたのだが、こんな恩師との裏話を明かしてくれた。

 

「私、講演の最後を『もっといいたいことを言えるイヤな女になります』と締めくくりました。そしたら講演後、上野先生がツカツカとやってきて、『千ちゃん。“イヤな女”じゃなくて、“うるさい女”とか“めんどくさい女”とか、もっとポジティブな表現にしなきゃダメじゃない!』と。ああ、私、50歳になっても、まだ上野先生に叱られてます」

 

そんな上野さんが、超高齢化社会が進む「令和」の時代を当事者として生きる世代へ向けたメッセージをくれた。

 

「日本の福祉は制度としてはけっして悪くないです。老齢年金と介護保険と医療保険の3つを基本として、使えるもんは使い倒して、障害年金や支援制度、生活保護といった権利はぜんぶ行使したらいい。大切なのは、自分の人生の主役になるという生き方。たとえ結婚して母親になったからといって、脇役になるわけじゃない。自分の人生は自分で決める。いや応なしに、その時期が人生の最後には誰にでも訪れるのですから」

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