熊本県宇城市三角町の戸馳島(とばせじま)で診療を続けて70年余。いまでは住民の居場所から食生活まで把握している、「佐藤医院」の佐藤立行院長。患者の話を聞き、触診をして、感覚と経験をもとに的確な診断をし、最近はコロナのワクチン接種も取り組んでいる。
半世紀前は、「不治のやまい」と言われた結核の治療に携わった。94歳のいまも、未来に向けて、診療を続ける気概が見えた――。
佐藤先生は1927(昭和2)年5月6日、郡浦村(現・宇城市三角町郡浦地区)で生まれた。
実家の並河家は代々漢方医の家で、祖父は明治時代に熊本医学校に進学。同窓に、日本細菌学の父・北里柴三郎がいたという。父の含春さんは日露戦争に軍医として従軍後、実家の並河医院を継いでいた。
「生まれたころは戦争真っただ中で、私も軍国少年でした。寄宿舎のある旧制宇土中学(現・熊本県立宇土中学校・高等学校)に進学し、海軍兵学校に進むことが憧れでした。兵学校は英語がダメで通らず、熊本医科大に進み、いずれ海軍の軍医になろうと思っていました」
しかし、在学中に終戦を迎える。
卒業後は大学の医局に勤務し、翌年、医師免許を取得して、当時、日本人の死因第1位だった結核の治療に携わった。
妻・圭子さん(92)と出会ったのは、医大を卒業した年だ。お見合いだった。出会った2人はお互いに一目ぼれだったようだ。
「お見合いのあと、よく手紙をくれたんです。うれしかったですよ。主人、格好よかったですから」
圭子さんは少女のような笑みを浮かべた。
1951(昭和26)年12月5日、圭子さんの実家・佐藤家に婿養子に入った先生は、戸馳島に渡った。
佐藤家は明治時代から代々、戸馳村村長を務めてきた家だ。それまで熊本在住だった義父・鶴亀人さんが、戸馳村の村長に選ばれ、戸馳島に戻ることになったのだ。
「並河家は長兄が継ぎましたし、私は末っ子ですからね。それに、お義父さんがすごくよくしてくれたんです。まぁ、そのころの私は無給の医局員でしたから、妻の実家にはずいぶん頼っていました」
戸馳島は、有明海と八代海に挟まれた宇土半島の先端にある三角町の南の海に浮かんでいる。1973(昭和48)年に戸馳大橋が架かるまでは、渡し船で行き来していた。佐藤先生も結婚後、しばらくは渡し船で熊本大の医局に通ったが、26歳のとき、島にある結核専門のサナトリウム「国立戸馳療養所」に内科医として勤務することになった。初任給は1万8千円だ。
「当時、結核は“不治の病い”といわれ恐れられていました。今のコロナではありませんが、誤った認識を持つ人がほとんどで、療養所の前を歩くときは、みんな呼吸を止めていたほどです。そのうち特効薬(ストレプトマイシン)が出てきて、結核は“不治の病い”から“治る病気”に劇的に変わりました。それが医師になりたてのころ。医学の力はすごいなと、とても印象に残っています」