■父には別に本妻がいた。小学校を卒業後、戦時下の満州に。帰国後は職を転々とした
長谷さんは1929年、香川県川東村(現・高松市)で生まれた。
「父親は村の医者で、地主やった。そんで、母親は元看護婦見習い。年が20歳ぐらい離れとった。父親が『お、若い看護婦が来た』言うて、お妾さんにしよったわけや」
そう、長谷さんの父には、母とは別に本妻がいたのだ。
「そやから僕はね、父親とはほとんど会うたことないの。いっぺんだけ小学生のころ、母親が留守するとき、父親が手伝いに来たのは覚えてるわ。ええ父親やったと思うよ。そんときは、なんて呼んだかな……、姉も一緒やったと思うけど、たぶん『お父さん』って呼んだん違うかな(笑)」
笑顔でサラリと話す長谷さんだが、出生時の環境は、その後の彼の人生に濃い影を落としていく。
「僕ね、小学校しか卒業してないの。なんでか言うたらね、学校の先生が口を滑らしたんはね、『お前は私生児やから試験受けてもきっと受からんやろ』って。実際、先生の言ったとおり、あかんかった。だから僕は小学校6年間でおしまい。中学校も高校も行ってへんの」
小学校卒業後、「満洲電信電話」に就職した長谷さんは、1年間の訓練所生活を経て43年、戦時下の満州(現・中国東北部)に。14歳の春だった。
「当時の満州は、僕みたいな若いの、多かった。僕は訓練所で電気通信、トンツートンツーの技術を身につけたから、新京の中央電報局で働いた。満州はええとこやったよ。最初は平和やったしね」
ところが、戦況は徐々に悪化。そして、45年8月15日――。
「日本が負けて、周りには泣きだす人や項垂れる人もおったけど、僕は別にショックではなかった。当たり前やな、そう思ってた」
後年、長谷さんは自らの生い立ちを私小説という形で出版。そこには、その日のことがこう記されている。
《あたしは踊り上がって喜んだ(中略)満州の空の下、こんなにうれしいときがくるなんて、死なないですむときがくるなんて……》
戦後、進駐したソ連(当時)軍の使役仕事などをして現地で生きながらえた長谷さんは、終戦から1年余の46年9月、やっとの思いで帰国を果たした。当初こそ故郷・香川県で暮らした長谷さんだが、20歳を迎えるころには、大阪・東大阪に移り住む。
「仕事はいろいろやったよ。電信局に勤めたこともあったんやけど、長続きせんかった」
長谷さんはその後、倉庫作業員や清掃員など、11もの仕事を転々としたという。
「もう、どんな仕事に就いとったか全部は覚えてないわ。替わりに替わったからね。転職を繰り返した理由? それはやっぱり、学歴がないから。小学校卒業の人間なんか、大きな会社はどっこもなかなかな……。『小学校しか出てません』言うたらね、ばかにして入れてくれへん。ま、いまもそうかもわからへんけど、そんなおかしな時代やったわ」