男たちは妻や幼い我が子を手にかけ…沖縄を襲った集団自決の真実
画像を見る 「どんなつらいことが待っていようと死んでは絶対ダメ」

 

■米軍上陸時、島民はパニックに陥りながら死に突き進んだ

 

高校を卒業した宮城さんは、沖縄国際大学に進学。大学の授業で、家族の戦争体験についてレポートを書くという課題が出され、初めて、ふるさとの島の集団自決に、正面から向き合うことになった。さらに、そのレポートを契機に「沖縄県史」編さんの手伝いをすることに。宮城さんは座間味島をはじめ、島々の人たちの戦時中の体験を取材し、執筆もした。

 

「大学卒業後は、琉球大学の研究生を経て、学術誌、月刊誌の編集部に就職し、編集や書き手の仕事をしました。仕事の一環としても、集団自決の調査を続け、雑誌で特集を組んだりもしたんです」

 

米軍が座間味島に上陸したのは、1945年3月26日。その数日前から苛烈な空襲と艦砲射撃にさらされた島民たちが、徐々に平常心をなくしていくのが、聞取り調査を通して、宮城さんには手にとるようにわかった。

 

「徹底した教育と、終戦の前年の9月から駐屯してきた、島の人口のおよそ2倍、千人余もの日本兵たちとの密接した生活。そのなかで、本来は軍隊用語だったはずの『玉砕』という言葉が、いつしか島民にとっては『親族を殺し自らも死ぬこと』という意味に変わっていったんです」

 

日本軍は島に、特攻艇の秘密基地を建設していた。男女を問わず土木作業や食料確保に動員された島民たち。いや応なく軍の機密にも触れた彼らが、生きて敵に捕まることを、日本軍は恐れた。

 

「だからこそ、いざとなれば玉砕を、と軍は手りゅう弾を配ったりしていたんだと思います」

 

米軍上陸前夜。島民たちはパニックに陥りながら、死に向かって突き進んでいた。

 

「3月26日の朝、家族とともに防空壕に逃げ込んだ50代の男性。彼は坑木に通したロープを家族一人ひとりの首に巻きつけ吊るし上げ、妻や子どもたち9人を手にかけました。なかには6歳と3歳の孫もいた。自分だけ生き残ってしまった彼は壕の入口で、錯乱状態で泣き続けていたといいます」

 

死ぬ方法も、さまざまだった。殺鼠剤を回し飲みする島民もいた。「この量では死ねない、もっとよこせ」という者もいれば、嫌がる子どもの口に黒糖を混ぜた殺鼠剤を、無理やり押し込む親もいた。

 

「殺鼠剤を飲み、もがき苦しむものの死にきれない家族を、棍棒でめった打ちにし、さらに小屋に火をかけ、その中に娘を放り込んだ父親もいました」

 

学校職員の壕では、軍から支給された手りゅう弾が使われた。

 

「教師の投げた手りゅう弾が当たって、首を深く切った少女がいたそうです。近くにいた女性が血まみれになりながら介抱し水を飲ませると、飲み込んだ水が首の裂け目から勢いよく漏れ出ていたと。様子を見ていた少女の母親は瀕死の娘を見捨て、まだ元気なほかの子どもを連れて壕を後にしてしまうんです。目撃した人によれば、その母親も死に場所を求め出ていったんだということでした」

 

パニックに陥り、自らの命を絶つことを急いだのは、宮城さんの祖父母も同じだった。

 

「祖父は私が大学生のときに亡くなってしまいましたし、祖母は最後まで、あの日のことを決して口にすることはありませんでした」

 

それでも彼らの子である母、そして叔母たち親族からの聞き取りで、詳細が徐々にわかってきた。

 

「やはり25日の夜。役場の人から『忠魂碑前に集まるように』と告げられ祖父母たちは、軍の手伝いをしていた母を除き、家族皆で晴れ着姿で死地に向かったそうです」

 

忠魂碑とは靖国神社に直結する斎場。その前で玉砕するのは日本国民として当然のことと思えた。

 

「でも、艦砲射撃を避けながら、やっとの思いでたどり着いたものの、そこには誰もいなかったそうです。仕方なく引き返した祖父母たちが、自分たちの壕に戻れたのは翌朝のことだったといいます」

 

疲れ果て、家族は眠ってしまう。しかし、数時間後。祖母の叫び声で全員が目を覚ます。

 

「外の様子をうかがった祖母の目の前に米兵が現れたんです」

 

取り乱した彼女は、祖父に「早く殺して」とせがんだという。

 

「祖父は剃刀を手に取り、まずは『早く、早く』と騒ぎ立てる祖母の首を切ったそうです。それでも息のあった祖母は『まだ死ねていない』とさらにせがみ、祖父は返り血を浴びながら2度、3度と祖母の首を切りつけました」

 

次いで祖父は3人の子どもの喉を切り、最後に自分自身の首に刃を当てた。5人の血は壕の外にまで流れ出ていたという。

 

「息子は絶命してしまいますが、直後に壕に押し入ってきた米軍により、瀕死の祖父母と2人の娘は救助されます。祖母は声を失いますが、米兵が装填したカニューレのおかげで一命を取り留めました」

 

生き延びた家族が再会を果たすのは、あれほど忌み嫌った米軍が設えた野戦病院、そのベッドの上でのことだったーー。

 

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