最愛の妻・裕子さんについて語る永田さん 画像を見る

【前編】『ふたりの人を愛し…』歌人・永田和宏語る故・河野裕子さんとの青春から続く

 

「愛する人を失った悲しみとは、伴侶や恋人の前で輝いていた自分がいなくなってしまった悲しみなのではないかと思う。河野を失ったとき、僕も僕自身が失われたに等しい思いでした」

 

そう語ったのは、永田和宏さん(75)。日本を代表する歌人で、細胞生物学研究の第一人者だ。「河野」と呼ぶのは10年8月12日に乳がんで亡くなった最愛の妻・河野裕子さん(かわの・享年64)のことだ。

 

裕子さんは20代前半から歌人として頭角を現し、23歳で角川短歌賞を最年少受賞するなど活躍。夫妻は09年に宮中歌会始詠進歌選者をそろって務めて「初の夫婦同時の選者」となるなど上皇陛下、美智子さまをはじめ、皇族方との親交もつづけてきた。

 

晩年の裕子さんは、そんな永田さんの「その後」を案じていた。

 

《私が先に死んだら、あの人、どうするかなあって。多分、お酒を飲みすぎて泥酔してお風呂で溺死するでしょうね》(『私の会った人びと』より)

 

いっそ自分も天に昇ってしまえば。そう思わなかったのかと問うと、永田さんは即座に答えた。

 

「否応なくありましたね、河野が『すごいわね』『よかったわね』と言ってくれることが、僕の生きる張り合いになっていた。もうそれを受け止めてくれる人がいないというのは、半分自分がいなくなったんですから……」

 

だが幸い、永田さんには仕事があった。11年に夫婦の40年の相聞歌と、裕子さんのエッセイを編集した『たとへば君 四十年の恋歌』(文藝春秋)を出版。12年には闘病記『歌に私は泣くだらう ー妻・河野裕子 闘病の十年ー』(新潮社)も。

 

「河野の生前の言葉と、歌を残す作業でした。日々それに忙殺されたことが救いだった」

 

このとき手紙とともに遺品から見つけていたのが、10冊以上にもなる裕子さんの日記帳だったのだ。

 

『いくら夫婦とはいえ、他人の心をのぞき見るようなことはできない』と、永田さんは裕子さんが亡くなってから10年近く日記を読めずにいた。しかし、いまから3年前の19年のこと、意を決して手を伸ばしたのだという。

 

「先立った河野は、本当に僕が夫でよかったのか? ほかにふさわしい選択はなかったのか? そんな疑問が頭をもたげたんです」

 

すると日記には、裕子さんの胸の内が赤裸々につづられていた。

 

当時、裕子さんの心には永田さんとN青年という二人の男性がいたという。そのあいだで悩む裕子さんが純粋すぎる恋の煩悶をぶつけてきた、68年1月の一日を、永田さんが回想する。

 

「あの日、河野はことさら思い詰めているようでした。喫茶店で長い沈黙にいたたまれず、外の路地に出て河野に告げられたんです」

 

裕子さんは「どうしたらいいの」を繰り返し、泣きながら永田さんの胸をたたき、くずおれた。

 

そこで彼がかけた言葉を、裕子さんは日記に克明に刻んでいた。

 

《あのひとは 限りなく優しかった 分別をもっていた〈好き 嫌い はどうしようもないモノなんやし そんなに苦しむな……さあ 自分の足でちゃんと立って〉そう言いながら むき出しになった脚に スカートをかぶせてくれた》

 

そしてこの記述のあとに、後に代表作のひとつとなる一首(『森のやうに獣のやうに』所収)の原型がつづられていたのである。

 

《たとへば君 ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫って行つては呉れぬか》

 

裕子さんの最も有名な歌がこの出来事に起因していたことを初めて知った永田さんは、驚いた。

 

「私のことを『離れられない存在』として強く意識してくれた夜だったんだと、感慨深い思いでした」

 

この日以来、会う頻度が増していき、裕子さんの熱情は一気に、永田さんへと傾注していった。

 

《あなたが 居なくなってしまったら 到底 ひとりでは たっていられそうにもありません》(1月7日 裕子)

 

いざ日記の封を解いてみれば、まっすぐに愛そうとしていた裕子さんの、けなげな表情ばかりが浮かんできて……。永田さんは、裕子さん亡き後、こんな一首を詠んでいた。

 

《わたくしは死んではいけないわたくしが死ぬときあなたがほんたうに死ぬ》(『たとへば君』より)

 

「死者がまだこの世で生きる方法があるのだとすれば、それは生者の記憶のなかにしかない。つまり河野を最も知る者として、僕は長く生きなければならない。それが、彼女を生かしておく唯一の方法だと気づいたんです」

 

その境地が、日記をめくる作業へとつながったのである。

 

「そこから河野と対話するように、精読しながら書き進めました」

 

新著『あの胸が岬のように遠かった 河野裕子との青春』(新潮社)は、裕子さんとの「青春の逸話」の結実だ。

 

コロナ禍で、自宅に単身住まう時間が増えたことも、結果的に功を奏したといえる。裕子さんが遺した日記、言葉と向き合う時間を存分に持つことができたのだから。

 

「いまは、なんだか誇らしい気持ちもあります。一切の妥協なく、相手にすべてぶつけて返歌を待つ。河野だからできたことだし、相手が僕だからこそできたこと。『俺でよかったのか』という疑問で始めた旅でしたが、いまは『俺でなけりゃ、もたなかったな』と」

 

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