【前編】【御巣鷹山から37年】「なぜ、救助は翌朝に?」天国の夫に誓う墜落の真相究明から続く
「ひとえに、主人がなぜ亡くならなければならなかったのかの事実、真実を知りたいだけなんです。
今日の今日まで、日航から直接、事故原因を説明されたことなど、一度もないんですから」
1985年8月12日に発生した日航123便墜落事故。
その遺族である吉備素子さん(79)が日航に対し、民事訴訟を東京地裁に起こしたのは、2021年3月26日のこと。当初、この7月に判決予定だったが、8月25日の口頭弁論を経て、9月以降になる見込みだ。
1985年当時から吉備さんは、おもに次の4つの疑問を抱いてきた。
第1に、墜落場所の特定が遅れ、救出が翌朝になったこと。
第2に、相模湾に落下し沈んだ垂直尾翼などの残骸が「引き揚げできない」と結論されたこと。
第3に日航の高木社長(当時)の「私は殺される」という不可解な発言。
第4は、群馬県警事故対策本部長・河村一男氏に言われた「事故原因を追及したら、米国と戦争になる」発言。加えて同氏が退職後、関西で再就職した後の次の言動。
「あるとき突然電話がかかってきて、私を『監視するためにわざわざ関西に来ました。ずっと見ているから』と言うんです。その後も計3度ほど、電話で言われました」
だが、そもそも遺族の疑問は、「日航側が一度も事故原因の説明をしていない」ことに起因する。
「なんの説明もないから、遺族は疑問をぶつけようがない。論点の整理もできない。『取り合わない~はぐらかす』の繰り返しで疲弊させられるばかりでした」
そんななか、遺族は最終手段として訴訟を“試みた”のだが……。
1986年4月、日航、ボーイング社、運輸省各幹部を業務上過失致死傷罪と航空危険罪違反で告訴するも、1989年11月の東京地検、1990年7月の前橋地検ともに不起訴処分。
民事では1986年7月、吉備さんら70人が米国ワシントン州で損害賠償請求をしたが、「日本の裁判所で決定すべき」とされ、1990年8月に同州最高裁が上告棄却。同月、公訴時効が成立してしまった。
ほかに損害賠償請求は計32件あったが、すべて「和解」し、真相究明にはほど遠い決着に甘んじた。
「遺族の疑念は報告書の完成で封じ込められました。遺族の悪口を吹聴する世話役もいて、遺族間の分断が狙いだったんでしょうか。
私も、高木社長の『殺される』発言や河村さんの監視が無意識の脅威となって、声を上げる場所を失ってしまいそうでした」