子ども食堂を作った宮津航一さん 養親や周囲の人たちに育てられた“恩返し”
画像を見る 宮津さん9人家族の1日の食費は5千円が目安

 

■児相から最初に里親になることを相談されたのは、予想外の幼い、3歳の航一さんだった

 

その少年が、近くの児童相談所(児相)にお好み焼きの出前をしていたことから、職員と美光さんとの交流が生まれ、美光さんは里親になることを勧められる。

 

「児相から、里親になれば、16歳の少年にかかる生活費のような持ち出しはなく、養育費や医療費も公的に助成してくれると聞いたけん『やります!』と二つ返事で承諾しました」

 

専門里親の登録をし、それからしばらくして、思いもよらぬ連絡が来た。

 

「未就学児ですが、いいですか?」

 

本来なら、非行に走る子どもを対象にする専門里親制度に登録していた美光さんだったが、児相から最初に里親になることを相談されたのは、予想外の幼い子ども。「どうする?」という美光さんに、みどりさんは迷うことなく「小さい子なら、かわいいに決まっとるたい」と受け入れを決断した。その子どもが航一さんだった。

 

■高3のとき養子縁組。でも「家族って戸籍でのつながり、血のつながりばかりじゃない」

 

美光さんはお好み焼き店を’10年に閉じて、’11年に開設したファミリーホームの運営に専念することに。

 

航一さんは両親の愛情を注がれ、明るく、まっすぐに育った。中・高6年間は陸上部に所属し、100メートル走では県内2位に入るほどの有望選手として活躍した。

 

平穏な生活を送っていたが、2年前の5月に、美光さんが大病を患った。みどりさんが振り返る。

 

「夫はよくしゃべる人なのに“今日はしゃべらないな”という日がありました。手のかかる子を預かったりしよったけん、精神的な疲れがあったと思い込んでいました」

 

翌日、美光さんも自分の身に起こった変化を自覚した。

 

「電話で、仕事の日程を調整したかったのに、『えーと、えーと』と言葉が出なかったんです」

 

言語をつかさどる脳の中心部の脳梗塞だと診断された。幸い早期発見でき、すぐにリハビリに取り組んだが、今でも後遺症として会話が途切れたり、会話の途中で言葉が出なくなったりしてしまう。

 

「人間、何があるかわからないと痛感。それで航一が高校を卒業してから養子縁組する予定を、高2に前倒ししたんです。5人の実子たちにとっても、航一は家族同然だから自然な成り行き。争うような財産なんてないけん、誰も反対しませんよ(笑)」(みどりさん)

 

家庭裁判所に養子縁組を申し立て、認められたのは’20年12月25日のことだった。家族にとって最高のクリスマスプレゼントとなり、翌年の1月に手続きを終了。

 

たった一人の名前しか記載されない単独戸籍だった航一さんの戸籍に、養父母の名が加えられた。

 

「養子縁組前から、胸を張って“親子だ”と言えましたが、やっぱりうれしいものでした。でも、家族って戸籍でのつながり、血のつながりばかりじゃない。自分がうれしいときも、大変なときも、思いを共有して支えてくれる存在だから」(航一さん)

 

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