■影山さんの出産に際しては、『リスクが大きすぎる』と、スタッフ全員が猛反対
55歳にして、影山さんは再び妊活をスタートさせた。
「孫がいてもおかしくない患者の不妊治療をしたら、私が日本中からバカにされる」
診察を希望する影山さんに、不妊治療で有名だったある医師は言い放った。その後も、信頼して任せられる医師とは出会えなかった。
途方に暮れる影山さんが最後に駆け込んだのが、東京都千代田区の「卵子提供・代理母出産情報センター」。’91年の設立以来、アメリカのネバダ不妊治療センターと提携して、すでに200件もの出産を手がけていた。
「20年たった今だから言えますが、影山さんの出産に際しては、『リスクが大きすぎる』と、スタッフ全員が猛反対でした。万が一のことがあれば、日本の医療界から干されるのは明らかでしたから」
そう語るのは、同センター代表の鷲見侑紀さん。影山さんとの交流は現在も続いており、今回の取材にも同席した。
「私どものセンターでも、受け入れの年齢に55歳というガイドラインをもうけていましたが、影山さんはすでに57歳でした。
それなのに、なぜ私が影山さんのケースを進めたか。理由は2つ。一つには、健康・肉体的に申し分ない条件がそろっていたこと。
そしてもう一つは、彼女が自分のためではなく、愛する夫に子供を抱かせたいと心から望んでいた気持ちに感銘を受けたからです。相談に来るときも必ずお2人で、手をつないで。『たとえ母になれても、いつまでも“女”でいたいんです』と彼女は言いました」
’99年5月には卵子のドナーが見つかっていながら、子宮筋腫が発見されてしまう。
「しかし、彼女は自分で医師を探して手術を敢行したほど。その1年後、4度目の渡米、2度目の体外受精で妊娠に成功します。
日本での出産は、高齢出産で実績のある東京慈恵医大病院産婦人科が受け入れてくれました。
そして’01年7月21日、影山さんは、帝王切開で2558gの元気な男の子を出産。「レノ」と名付けた。