「60歳の患者に不妊治療したらバカにされる」と医師に言われ…日本最高齢出産女性が明かす秘話
画像を見る 生後1週目の授乳する百合子さん

 

■息子に弟妹を残してあげたいと思い、2人目妊娠の道を模索し続けたが……

 

さらに出産から9カ月が過ぎた’02年春のこと。影山さんは、鷲見さんにある相談をしていた。

 

「2人目を欲しいと思いました。1人目は彼のため、2人目はレノのため。レノに弟妹を残してあげたかったんです」

 

実際に医療機関などに相談もしたが、超高齢出産の壁は以前にも増して高くなっていた。

 

「私の60歳出産は、日本の不妊治療に風穴を開けたのではなく、バッシングも大きかったですから、逆に先生方を追い込んで、旧態依然の状態に戻してしまったのではないかと感じました」

 

その後も3年以上、医療機関に働きかけ、2人目妊娠の道を模索し続けたが、その時点で、卵子提供についてだけでも国と医師会では意見の相違があり、先へ進めなかった。厚生労働省の検討中の見解のなかでも、「加齢により妊娠できない夫婦は対象とならない」という文言があり、これに影山さんは当てはまるのだった。

 

当時の影山さんの深い苦悩を、鷲見さんはこう振り返る。

 

「彼女の気持ちもわかりましたが、もし『自分の命と引き換えにでも』と考えているなら、それは違うと思いました。子供のためというなら、ご自分が1年でも長生きして、レノちゃんの人生を見守ってほしいと、そんな気持ちを伝えたこともありました。 超高齢出産に関して、いまだ国内では確固とした法整備ができていませんが、現在、私どもが提携しているアメリカの医療機関では、受入れ年齢が50歳までとなっています」

 

■息子と暮らし始めて、愛情が深くなり、産むことより、育てていくのがいかに大変か実感

 

2人目を諦めた落胆も大きかったが、それ以上に、スクスク育っていくレノ君の存在は希望そのものだった。レノ君は父親の実家で暮らすこととなったが、2歳になる前には、レノ君の世話をしていた夫の姉も一緒に来日して、念願の東京ディズニーランド訪問もできた。

 

「レノは、ディズニーでも街中でも、若いお姉さんを見つけては近づいていき、『かわいい!』と言われるのが得意でした。それを見て喜んでた私も親バカですが(笑)」

 

’07年3月、公務員を定年まで勤め上げて退職。

 

「ずっと福祉関係の仕事でしたが、私自身、祖母を介護した体験があったので、苦悩する家族のために何ができるかと常に考え働いていたという自負はあります」

 

やがて、待望の日が訪れる。幼稚園と小学校を中東の父の国で終えたレノ君が、日本で暮らすようになったのだ。

 

「父親の母国の大使館付属の中高一貫校に入りました。向こうの生活では500人も親族がいるなかの長男ですから、幼稚園もタクシーで送り迎えという猫っかわいがり状態でしたが、私は『自分のことは自分でやる』という教育方針で進めました。最初に教えたのは『こんにちは』『ありがとう』の挨拶をきちんとすること。

 

本人は日本人の友達ができないことと通学の満員電車が悩みのようでしたが、空手を習って日本に溶け込もうと頑張ってましたね」

 

母子2人の生活が、影山さんに大切なことを教えてくれた。

 

「レノと暮らし始めて実感したことは、どんどん愛情が深くなることでした。同時に、産むことより、育てていくのがいかに大変かということも。

 

産んだ後をこそ考えて不妊治療に臨むべきというのは、これから高齢出産を考えている人に、私がぜひ伝えたいこととなりました」

 

昨年の年明けのことだ。

 

「レノは、地元の成人式の式典に参加しました。このときばかりは、中東から父親も駆けつけました」

 

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