唯一の肉親だった――。誰よりも沖縄を愛し、大阪から沖縄に移り住んだ最愛の弟は、新型コロナウイルスによって、自宅で誰にもみとられることなく亡くなってしまった。
なぜ、弟は孤独に死ななければならなかったのか? なぜ、患者と音信不通になった場合に、連絡を取るという行政のルールは守られなかったのか? そんな疑問から「自宅放置死遺族会」を立ち上げた女性が、弟の死から1年3カ月、初めて沖縄の地を訪問したーー。
「弟が他界してから1年3カ月たって、ようやくこの地、沖縄に足を運ぶことができました。本当はもっと早く来て、皆さんにご挨拶すべきだったんですが、正直、弟がいない沖縄を訪ねるのが怖かった。弟を温かく送ってくださった皆さんには、なんてお礼を言ったらいいか……」
2022年11月29日。沖縄県那覇市のとある飲食店で、亡き弟の友人たちを前に、そう言って涙ぐむ女性の姿があった。高田かおりさん(48)だ。
高田さんは、コロナに罹患しても医療にかかることができず、自宅で死亡した人の遺族でつくる「自宅放置死遺族会」(以下、遺族会)の共同代表のひとり。高田さん自身も、弟の竹内善彦さん(享年43)を、2021年8月に“放置死”で亡くしている。
「弟は11年前、大阪から単身で大好きな沖縄に移住。那覇市内で居酒屋『すいか』を経営していました。コロナ禍になってからは、しばらく自粛の日々が続いていましたが、『再開したらがんばる』と言って、自粛中も新しいメニューの考案をしていたんです」
ところが、コロナ禍になって2年目の2021年7月27日、善彦さんはコロナを発症。8月4日に那覇市内のクリニックでPCR検査を受け、5日に陽性が判明した。6、7日と保健所が善彦さんに電話するも連絡が取れないため、8日に警察と共に保健所職員が自宅を訪れたところ、善彦さんは自室のベッドで亡くなっていたという。
「8月10日に那覇市の警察から『弟さんが他界されました』と電話が入って。私、ウソやろ、と思って『なにかのまちがいです』と言ってしまったんです」
死亡推定日は2021年8月7日。ベッドの横には、腐敗したコンビニ弁当が残されていたという。
すぐに来沖できない高田さんに代わり、善彦さんの遺体の火葬や、自宅や店の整理をしてくれたのが、この日、高田さんと那覇市内の飲食店で対面した善彦さんの友人たちだった。
「タケうっちゃんは、いつもトレードマークの帽子をかぶって、短パンにTシャツ姿でね。仲間が主催するイベントなんかも、よく手伝ってくれたさ。お母さんが亡くなられたときは、『姉ちゃんがひとりになった』って心配していたよ」
友人らが語る善彦さんの思い出話に、目をうるませながら聞き入る高田さん。この日は遅くまで、高田さんに会って元気づけようと、入れ替わり立ち替わり善彦さんの友人が訪れていた。
「父母が、がんで他界したときもつらかったけど、寄り添ってくれる医師がいて、最期はみとることができた。でも、弟は……」
善彦さんと最後に会ったのは、彼が他界する2カ月前。母の四十九日の法要の席だった。独身の高田さんは、天涯孤独に。
「当時、那覇市では患者と丸一日連絡が取れなければ、保健所の職員が自宅訪問することになっていたようです。でも弟の場合、職員が訪問したのは3日目でした。なぜ遅れたのか。なぜ放置されたのか。陽性が判明したあとの弟の様子はどうだったのか。せめて、それを直接聞きたかった。二度と放置死を繰り返さないためにも」
これが、高田さんが来沖した、もうひとつの理由だった。