■就職して農家などの生産者を取材し、「命に支えられている」と気づく
大学生となり、初めて親元を離れての生活も始まった。
「新歓コンパでジュースを飲んでいる自分に驚いたり(笑)。友達も次々にできたりで、拒食症は入学後には完治していたと思います。でも、まだ自分が拒食症だったという、いわゆるカミングアウトはできていませんでした」
そんなとき、東日本大震災が起き、さらにその10日後、今度は母親がクモ膜下出血で倒れて危篤に陥る。幸い発見が早く、その後回復したというが。
「この2つの出来事があって、改めて生と死について考えました。少し前まで、私自身も拒食症で死と直面していたわけです」
そして、思った。
「私は今まで、命に対して誠実だったろうか。もっときちんと向き合い、自分のやりたいこと、できることをやらなければ、この命に対して申し訳ない」
同じころ、「香菜は、拒食症だったからこそできることがあるのでは」という友人の言葉にも背中を押された。
「その後は、積極的に東北の被災地支援にも行きましたし、自分たちで団体を作ってトークイベントや100人規模のキャンプを企画したりで、それまでの低迷期(笑)がウソのようで」
学業でも最終的に民俗学を専攻し、いずれ民俗学的視点で食を研究したいと考えるようになっていた。そんな慌ただしい日々を送るなかで、自分の過去についても自然に話せていたという。
「卒業後は食に関わる仕事をしたいと思っていましたが、明確に絞り込むことができなくて」
そんな彼女が選んだ就職先が、横浜の不動産会社の営業職というのは、少し意外な気もするが。
「まず、自分に足りない伝える力をつけようと思いました。マンション営業では、駅前のチラシ配りから飛込み営業までやって、新人賞も取ったんですよ(笑)。生きてるだけで大丈夫なんだ、と吹っ切れたんです。ただ、やっぱり、どうせやるなら好きなことを仕事にしたいと考えていたとき、熊本の知人から『一緒に事業をやらないか』と誘われました」
熊本へ戻った彼女が始めたのが情報誌『食べる通信』の熊本版の発行で、その創刊メンバーとして副編集長も務めた。
「熊本県内の農業や漁業の生産者さんのもとへ取材に行くようになり、その出会いのなかで、土地そのものが命なんだ、自分はその命に支えられて生きているんだということに気づくんです。私は、孤独じゃないんだ、と」
しかし、熊本に戻って半年ほどしたときに熊本地震になり、取材などが立ち行かなくなる。
「そこへ声をかけていただいたのが、クラウドファンディングの運営会社の代表の方。今度は全国の生産者さんと出会えるとわかって、ぜひやりたいと思いました」
’17年春、東京に本社のあるCAMPFIREに転職し、ローカルフード担当として、まさに日本中を駆けまわる日々が始まった。
全国を巡るうちに、冒頭のように「おむすび」を軸に全国の食文化を知り、広め、ワークショップを開いて人々の縁を結ぶ活動を思い付いた香菜さん。食の大切さを伝える旅は続いていく。