■先天性の障害が心臓と目に。小学校高学年で「一般的な仕事」は諦め、バイオリンを猛練習
ファンから「アナザー(穴澤)・ワールド」と称される独自世界を築いた穴澤さんは’75年3月29日、千葉県市川市に生まれた。
父は、医療機器会社に勤務する会社員で、母は専業主婦だった。
「私は先天性の障害が心臓と目にありました。生まれたときに紫色の顔をしていたそうで、即入院。2歳までほとんど病院で過ごしていて、入院や通院を繰り返していたのを覚えています」
幼少時期から運動を制限され、眼鏡をかけていた穴澤さんがバイオリンに触れたのは5歳のこと。
「幼稚園の友達と一緒にお稽古事として通いました。母親同士が決めたんだと思います」
世に中流意識が叫ばれた時代に、穴澤家は「中の上くらい」の生活水準だった。月謝は2千円、与えられたバイオリンは中古だった。
だが小学校中学年以降、心臓の動きがだんだん悪くなってきた。
「10歳で最初の心臓手術をしました。麻酔が効きすぎたのか、丸2日、記憶がありません。そしてそこから、どんどん視力が落ちてきてしまったんです」
先天性緑内障と診断されており、視野狭さくも大きくなってきた。
教科書を読むにも拡大鏡が必要で「人の3倍」時間がかかった。
「小学校高学年のころ『一般的な仕事には就けないだろう』と悟りました。同時に『演奏家だったらなれるかな』と。耳や手先の感性を研ぎ澄ましていけば、なんとかなると思ったんです。そこから、バイオリンを猛練習しました」
中学進学の際は、筑波大学附属盲学校中学部へ。「将来的に全盲になる覚悟をしなければなりませんから、盲学校を選びました。
盲学校では私より重度の障害がある級友がずいぶん明るく過ごしていたので、『弱音を吐いてはいられない』と励みになりました」
軽音楽部に入部してキーボードやパーカッション、ドラムを経験。
楽譜を見ながらの演奏は困難になってきて、耳で覚える「耳コピ」が主となっていく。
「音楽家志望ながら、楽譜を見ての演奏が基本となるクラシックは無理だと、選択肢が狭まっていく時期でもありました」
だが筑波大附属盲学校の高等部本科音楽科に進学後、視力はますます衰えていった。
「外出時にけがすることが増えました。思い切り何かに激突したり、転倒もするので、白杖を持つようになったんです。点字の勉強も、この時期から始めました。
ちなみに、私は駅のホームから、これまでに2度転落しています」
何げなく彼は話すが、つねに命の危険と直面しているのがわかる。
「視覚障害者の鉄道での人身事故は、時折、起こります。まったく予期できず線路に落ちるため、打ちどころが悪く致命傷になってしまうことだってあるんです」
この高等部時代に体育の授業で右目を負傷して、猛烈な痛みが引かず、17歳で右目を摘出手術。
折あしくバブル崩壊直後で、父が経営する会社も業績悪化する。
「もう『中の上の生活』なんて言っていられず、一度の受験失敗で音大進学もあきらめました。
高等部卒業後、2年の専門教育を受けられる専攻科音楽科に進学。音楽を仕事にするためでした」
’95年、専攻科を修了するとフリーランスで音楽活動をスタート。
「バイオリンを受け入れるバンドやアンサンブルを、探しては応募しました。でもグループに入っても、最初の楽譜の読み込みから、ほかのメンバーに著しく遅れてしまうんです」
楽譜を受け取り、視覚障害者のためのボランティアに依頼すると、1週間ほどで点訳が上がる。そこからやっと練習を始められるが、
「バイオリンは、楽譜を見ながら両手で弾きます。でも、私はまず点字を指で触れて理解し、その後にバイオリンと弓を持って……。
いちいち持ち替えながらでしか練習ができないから『人の3倍は時間がかかる』と言われるんです」
ほかのメンバーから、お荷物扱いされることもあった。
「あるとき『スケジュールが合わないから』と解散したアンサンブルが、私以外のバイオリニストで、ちゃっかり再開していました」
当時の仕事頻度は、バイオリンの家庭教師が週1〜2回、ライブは多くて月2回ほど。
「ノルマのチケット代を回収しても、手取りわずか数千円でした」
理想とかけ離れた現実を味わい、悶々とした青春時代だった。