■マラリアから女の子の命を救ったことも。数年後、家族に彼女の結婚式へ呼ばれて
在タンザニア日本大使館の医務室で働く医務官として新生活をスタートさせた。邦人が多く、すぐになじむことができた。ゴルフやテニスなど、夫婦の趣味も見つけた。
「食べ物も、現地にはほうれん草がないから、おひたしはクレソンで代用。日本から持ってきた納豆菌と大豆を、熱をもった車のボンネットの上で発酵させて納豆を作ったりもしました。粘りは弱かったけど、そんな経験も楽しかったです」(佳代さん)
1年の予定だったタンザニアでの生活は3年半続き、その後、川原は熱帯医学を学ぶためにロンドンの大学に単身留学。3人目の子どもを妊娠していた佳代さんと子どもたちは日本に帰り、1年ほど別々の生活をしていた。
02年、医務官としてスーダンへ異動することになり、家族は、再び新天地での生活をスタートさせたのだった。
「タンザニアとの違いは、スーダンは内戦中で、日本人がほとんどいないところ。アメリカからはテロ支援国家に指定され、日本も欧米同様に、2国間援助をストップしている状況でした。
しかし、実際に生活を始めると、治安面で怖い目に遭うことはなく、街は活気にあふれ、人懐っこいスーダン人も多くて、生活にも慣れていきました」
医療面においては、現在でも人口の50%以上が2時間以内に医療施設にたどり着けず、40%以上が清潔な水を利用できず、60%以上が十分な衛生設備を使用できないという厳しい状況だという。
「外務省の医務官として視察した医療現場では、コレラやマラリアで死んでいく子どもが多い現状を目の当たりにしました。地方のある病院では患者が収まりきらず、屋外の木の下にベッドを置いたり、一つのベッドで2〜3人が寝ている。別の診療所で子どもの患者のおなかを触診すると、肝臓と脾臓が腫れていました。リーシュマニア症というサシチョウバエが媒介する、致死率の高い病気だったんです」
だが、こうした現状を目の当たりにしても、2国間援助を停止している日本の外務省医務官の立場では、手を差し伸べることはできなかった。
医師である以上、目の前の患者を救いたい思いが募ってくる。迷いながらも、外務省を辞職し、自分が思う医療活動をするという決意にたどり着いた。
佳代さんも夫の決断に賛同した。
「外務省を辞めてお金に困っても、私が働けばなんとかなるとは思って。あんまり考え込んだら行動できなくなりますからね。ただ、上の子が中1になるときだったので、日本の教育を受けさせたいから、私たち家族は日本に帰ることにしたんです」(佳代さん)
川原は06年に「ロシナンテス」を立ち上げ、高校時代のラグビー部の仲間を巻き込み、スーダンでの活動を始めた。
まもなく、東部のガダーレフ州の保健大臣と出会った縁で、医師のいないシェリフ・ハサバッラ村での医療活動を依頼された。
村のリーダーであるハサンさんの家に住み込み、まずは医療設備を整えた。
「これまで外国人はよく通り過ぎていった」
ハサンさんはそう言ったという。
「最初は信頼されてなかったと思います。でも、ハサンと寝食をともにし、医療機材や木のベッドを運ぶよう役所に陳情に行くうちに、徐々に信頼関係が深まっていったんです」
診察、検査、救急車の運転など、1人でこなした。時間があれば村を歩き、村人と一緒にお茶を飲んだり、車座になって食事をした。
やがて村に溶け込み、いなくてはならない存在となっていった。
「10代の女の子が夜中遅くに急患で運ばれてきたのですが、脳性マラリアでした。命が危なかったのですが、医師がいたからこそ助けることができたんです」
女の子の家族は、その恩を忘れなかった。数年後のことだ。
「娘が結婚式を挙げるんです。先生、ぜひ、参列してください」 「苦しくてゆがんだ顔を覚えているけど、すごくきれいなお嫁さんになったね」
そんな再会を喜んだ。
さらに川原は、水の問題にも取り組んだ。
「下痢を訴える患者が多いのは、川の水を飲んでいることが原因。しかも川で子どもが流されて、亡くなる事故も。そのため村にある古井戸を改修しました」
将来、看護師になる人材が欲しかったが、看護学校の前に、小学校の教育も満足に受けられる環境ではなかった。
「とくに女子教育には否定的な地域もあったので、8年ある義務教育で、女子は低学年までしか受けられなかったんです」
こうした思いから、村には女子の学校が誕生した。
また、「ロシナンテス」はワッドアブサーレ区に3カ所の診療所を立ち上げ、医師が常駐できない村には、定期的に医師を派遣する巡回医療の体制を作り、きれいな水がない村には井戸を掘るなど、活動の場を広げた。またスーダン人医師に肝移植を学んでもらおうと、母校・九州大学に招 聘するなど、人材育成にも注力した。
だが、こうした活動の前に立ちはだかったのが、突如、勃発した内戦だ。