ところが’03年の衆議院選挙では、洋子さんが選挙事務所の奥に陣取って選挙を取り仕切っている。
「あのときは長女が4カ月になったばかりでした。選挙前には『君は子育てが大変だから何もしなくてもいい』と言っていたのに、1週間もたたないうちに『友だちが手伝いに来ているのに、なぜお前は来ないんだ』と担ぎ出された。
そもそも私は、政治家なんてくだらないものだと思っていたし、うそのつけない泉は政治家には向いてないとも思っていた。でも選挙に出ると決めたら、みっともないから落選させられない。それに彼の選挙活動は、あまりに無策で口出しせざるをえなかったんです」
泉もこう振り返る。
「『夫は弁護士として社会活動をしていく』と妻は思っていたようなので、まさか選挙と言いだすとは予想外だった。だから妻は『結婚直後からあんたにはだまされた』と言ってました」
洋子さんに選挙活動の経験はなかったが、彼女の戦略が当たった。
「泉は『行動する弁護士』『世のため人のため』と弁護活動を書いたチラシを配っていましたが、“正義の弁護士”と何度も訴えても飽きられます。そこで泉には内緒で、20代の選挙ボランティアに『なぜ私たちが泉を応援するか』を語らせたチラシを作って配布しました。泉には知名度がなかったから、若い人がどんな思いで応援しているかを訴えたほうが有権者に伝わると思ったんです。
それに泉は演説も下手で、マニフェストに沿ってただ叫んでいるだけ。『勝つ気があるんだったら、人の心を動かす演説をしてください』と強く言ったこともあります」
妻のサポートもあり、泉は当選。国会議員として「犯罪被害者等基本法」など数多くの議員立法を結実させるが、’05年の郵政選挙で落選。弁護士の活動に戻った。
泉はこの後、もう一度妻をだます。
「弁護士活動を再開しても政治にかかわりたくて悶々としている私に、妻が『あんた、まさかまた選挙に出るなんて言わへんよね?』と。もう1人子どもが欲しいと思っていた私に、妻が『2人目の子どもが欲しいか選挙に出るか、どっちか選べ』と迫るから、うそをついてしまった。『もう選挙には出ません。子ども2人目お願いします』と。でも結局、長男が生まれて4年後に明石市長選に出馬した。確信的に妻をだましたんです」
この選挙で当選し、’11年、市長になるという念願をかなえた泉。しかし、市役所は敵だらけだった。
「市長になってすぐに予算配分を市民優先に変え、年功序列の人事も覆しました。そしたら市役所からも市議会からも総スカン。地元新聞を市役所で各課ごとに購買するのをやめるなどマスコミの予算を削ったら、ネガティブキャンペーンを張られて『ろくでもない市長』とマスコミにもたたかれまくりました。正直しんどかったですよ。でも3年目ぐらいから子ども医療費無償化などやりたいことが少しずつ形になり、市民に応援してもらえるようになったんです」