■おにぎり店の店主と結婚。厨房に立つも恐怖で「1週間で胃に穴があきました」
「近所に友達ができたので、遊ぶお金もほしかったですし、食事はタダでもらえるパンの耳でしのいでいました」
当時、女性の右近さんが一人で入れる店は中華料理店くらいしかなかった。そのため食事はパンの耳かラーメンばかり。米どころ出身であったにもかかわらず、お米不足状態だったという。
「そんなとき友達の一人が『大塚においしいおにぎり屋さんがある』と誘ってくれたんです。
それがぼんご。青じそとしば漬けのおにぎりを1個ずつ、それとなすの糠漬けを食べたんです。
東京では炊きたてのごはんを食べたことがなかったから“こんなにおいしいものがあるのか”と感動して、ほとんど毎日のようにお店に通い始めたんです」
常連客となると、“店主のおじちゃん”が「よぉ、コーヒーでも飲んでいくか」「パチンコでとってきたあんみつ食べるか」と、何かと気にかけてくれるようになった。店主の祐(たすく)さんは27歳も年上で、右近さんの父と同じ年齢。父はコツコツ苦労を重ねてきたが、祐さんは要領がよく、戦後も進駐軍相手にバンドのドラマーとして活躍し、食べることに苦労したことがなかったという。
「生き方の違いもあったのか性格は真逆。男性といえば父のことしか知らなかったので、おじちゃんと出会い“世の中には、こんなやさしい男もいるんだ”と思ったんです」
祐さんは早くから右近さんを見初めていたようで、誕生石の指輪をプレゼントするなどアプローチしてきた。
「友達と『絶対におかしいよね』『あぶない、あぶない』と、ちょっと警戒していたんです。でも、おじちゃんは『ボク、君の人生の踏み台になってもいいよ』とまで言ってきて……」
祐さんの“捨て身”の求婚は、右近さんの心を動かしたが、壁となったのは厳格な父親だった。
「父は『二度と新潟に帰ってくるな』と。おにぎり屋という仕事への不安もあったんでしょうね。でも、母は上京してぼんごの納豆おにぎりを食べて、安心してくれました。母の説得があったのか、父も結婚を認めてくれたんです。父は上京したときは私に、『おにぎりを握れ』と言うようになり、必ずお土産として持ち帰りました」
両家の縁を結んだものがおにぎりだったのだ。だが、そのおにぎりで右近さんは大変な苦労をすることになる。
24歳で結婚し、皿洗いや接客など店の手伝いを始めたが、30歳のときに、ぼんごで働いていた祐さんの弟が脳梗塞で倒れ、さらに職人も急死し、おにぎりを握れる人がいなくなってしまったのだ。
「主人から『お前が明日から握れ』と言われ、それが地獄の始まりでした。主人は不器用で不格好なおにぎりしか握れないし、何も教えてくれないし、気がつくとふらっといなくなってしまう。
私も負けず嫌いで『教えてください』『できません』『休みたい』とは絶対に言えないタイプなんです。一度だけ、『明日だけはお店をお願いします』と頼んだんですが、次の日、主人は起きてきてくれませんでした」
保育園の先生になりたいと思うほど子供が好きだった右近さんだが、あまりの忙しさで自分が子供を持つことなど考えられなかったという。
当時、ほとんど全ての客は常連で、右近さんに厳しかった。
「お客さんからは、ほぼ文句しか言われませんでした。『ごはんが熱すぎる。巣鴨警察署に訴えるぞ』『お前の作った味噌汁は世界一まずい』……、最大の屈辱は『あんたの代わりに、俺が握ってやろうか』という言葉でした。
仕事中はお客さんの顔を見ることすらできにずっとうつむいたまま。まな板の前に立つのが怖くて、1週間で胃に穴があきました」
だが、愚痴を聞いてくれたり応援してくれる常連客も多かった。
「ある方からの『苦情を言ってくれるのは、また店に来たいからだよ』という励ましの言葉にも勇気づけられました」
右近さんはお客の苦情に真摯に耳を傾けるようになった。「味噌汁が苦い」と言われれば、なぜだろうと考え、昆布をお湯が沸騰する前に取り出さなければならないことを客から教わった。
そうやって一つ一つ学び、10年後、ついに初めて“会心の一個”を握ることができた。
「何がきっかけかわかりませんが、天才じゃないかと思えるほどのおにぎりが握れて、自信が持てました。
そこからですね、お客さんの顔を見られるようになったのは」
(取材・文:小野建史)
【後編】おにぎり店「ぼんご」の女将・右近由美子さん 「夫の介護」「借金」「睡眠不足」の三重苦にも打ち勝った“おにぎりを握り続ける理由”へ続く