【前編】“空飛ぶママさんドクター”渡辺由紀子さん「僻地は私が守る!」から続く
渡辺由紀子さんは、フリーランスの総合臨床医。北海道や種子島などを転々と回り医療活動する“空飛ぶママさんドクター”だ。
そんな由紀子さんのある1週間の予定を聞くと、移動距離に驚かされる。
日曜、月曜に北海道の道東で20時間連続の勤務を終えると、火曜に埼玉県の病院、水曜に東京都内のクリニックで勤務。夜のうちに北海道の道央へ移動して、木曜、金曜は現地のクリニックで診察。夕方、飛行機で道東の病院まで移動し、土曜から日曜にかけて33時間連続勤務をして、夕方に広島県に移動して、翌月曜に診察。火曜にはまた埼玉県の病院へ――。
「この2~3カ月は移動の合間や昼の隙間時間で、産業医のオンライン面談をこなしたり、種子島や青森県、熊本県にも行って、かなり限界に近いです」
それでも仕事をこなせるのは、防衛医科大学校出身で、自衛隊員としての訓練も受け、体力も根性もあるから。同大大学院(医学研究科)では初となる妊娠・出産・育児を経験し、後輩女性のためのロールモデルに。自衛隊を除隊してフリーランスに転向してからは、医師不足に苦しむ僻地へ向かい、患者とする毎日を送る。
■防衛医大では自衛隊の訓練として演習場でほふく前進うあ射撃訓練も
渡辺由紀子さんは、時計部品工場で働く父・峰次さんと、専業主婦だったり、パート勤務やお総菜屋さんをやっていたこともある母の朋子さんが居を構える埼玉県新座市で育った。
「父とはウマが合い、休日には車でいろんなところに連れていってくれたものだから、お父さんっ子でした。でも、昭和の封建的な父で『女は勉強しなくていい。そんな時間があれば、お母さんの手伝いをしなさい』という考えでした」
だが、由紀子さんは勉強好き。小学校のテストは100点ばかりだったが、父に見られると怒られてしまうため、隠していた。ついには友人の影響で進学塾の入塾テストを受けたことをきっかけに、中学受験を希望したのだった。
「母が父を説得してくれたんだと思います。私は負けず嫌いで、勉強で1番をとりたかったんですね」
その言葉どおり、日本有数の進学校である桜蔭中学に合格を果たした。語学が好きな由紀子さんが高2のころに抱いた夢が、外交官。その矢先のことだった。
「父はもともと血圧が高いのに朝風呂に入る人で……。バタンと倒れたとき、母が気付いたようです」
脳内出血だった。不安な気持ちで救急車を待っているとき、父は薄れゆく意識の中で「お母さんと弟をよろしく頼むぞ」と由紀子さんに言い伝えた。
大学病院に搬送され、一命は取り留めたものの、後遺症が残り社会復帰は困難だと伝えられた。
お父さんっ子の由紀子さんは学校が終われば父の病室を見舞い、1時間ほどベッドサイドで勉強をしてから帰宅。
学校では父のことが心配で涙があふれてしまうことも。ふさぎ込む由紀子さんを見た担任の教師が、スクールカウンセラーとの面談をセッティングしてくれた。
「何を話したのか覚えていませんが、知らない人だからこそ言えるような気持ちを吐き出すことができて、本当の意味で泣けたんでしょうね。すごく気持ちが楽になったんです」
担任は奨学金の手配もしてくれて学費の不安は解消されたが、母は生活費捻出のため、若いころに働いていた会社でパート勤務を始めた。その会社からの下請けで、1通30~40銭の宛名書きの内職を由紀子さんも手伝った。「お母さんのことを頼んだぞ」という父の言いつけどおりに。
「うちの学校は月曜日の午後は自学するために授業がないんです。誰もいない教室で宛名書きをしようとしたら、受験勉強がいちばん忙しい時期なのに、クラスの友達が机を並べて手伝ってくれたんですね」
そのやさしさに報いるためにも、将来の進路を本気で考えた。
父は自宅療養していたが、定期的な通院、検査、また入退院を繰り返しており、そのたびに医師の説明を聞くのは由紀子さんだった。
「主治医が丁寧に説明をしてくださるんですが、なかなかスムーズに話を進められませんでした。そこで初めて“医学を勉強したい”という気持ちが芽生えたんです。医学に詳しくなれば、より父に寄り添えると。医師になろうとまでは思わなかったんですが、医学を学びたいと思うようになったんです」
外交官になるために目指していた東京大学文科一類に学費免除で合格したが、学生でも国家公務員という立場で給料が支給される防衛医大を選んだ。
「防衛医大は寮生活で、朝はラッパの音で起床。すぐに建物の外に出て点呼を取らなければならないのですが、慌ててシーツをピシッとそろえないと、外に投げ捨てられてしまいます。登校も制服姿で隊列を組んで行進です」
長期休みも、他大学と比べて3分の1ほど。残りは自衛官としての訓練だ。地方の演習場でほふく前進したり、小銃の射撃訓練をしたり、野営したりと、医学生と自衛官の2人分の訓練が必要だった。
「しかも寮生活でプライバシーはありませんでした。でも、見回りがあってもお風呂の脱衣所は女子しか入れないので、夜は3人しかいない同期の女子で愚痴を言って、励まし合いました」
医学の道へ進むきっかけとなった父の容体は、悪化していった。転院を繰り返し、防衛医大のリハビリ科に入院したこともあった。
「事情を知る教授に『あなたがお父さんを介護しなさい』と、入院期間は病室で寝泊まりさせてもらいました。父が生きているだけで支えになっていたので、一緒に過ごした時間は貴重でした」
だが、医学科6年生に進級したばかりのとき、実家近くの病院に転院した父の容体が急変した。
「意識を失って終わりが見えてきました。最後、蘇生を試みるかで悩みました。母に答えさせるのは酷だと思い、私が蘇生を断ったのですが、それでよかったのか……。
このとき患者家族の悩みやつらい決断を経験したからこそ“患者の気持ちに寄り添う”という、私の医師としての原点があるのだと思います」
由紀子さんは医師としての一歩を踏み出した。