■世界を飛び回る登山家だが、本業は医師。患者からの評判は“日なたの匂いで元気になる”
ラジオを通して聴こえてくる声も力強いが、目の前に立つその人は、さすが世界の最高峰に登り続けたアルピニスト。威風堂々という言葉が頭をよぎる。
今井さんの人生観。その人間形成に多大な影響を与えたのは、医師だった両親の教育方針だった。
「うちの親は、当時の一般家庭からしたら飛んでましたね」
こう語ると、昔を懐かしむように笑顔を見せた。’42年、眼科医の両親のもと、1男3女の長女として東京都世田谷区に生まれた。
「父は明治生まれでしたが、子供たち全員を医者に育てました。それはつまり、男女の区別をしない人だったということです。女性が働くこと自体まだめずらしかった時代に、私自身、女性でも自立するのが当たり前だと思って育ちました。父は、いまでいうフェミニストだったんだと思います」
自然に親しむことの大切さを教えてくれた両親。週末には、丘や川で遊ぶのが当たり前の子供時代を過ごした。
東京女子医科大学に進学後、山岳部への入部を決めたのも、自然のなかで活動し、健康を保とうと考えたからだった。部活動だけでは飽き足らず、個人山行を始めてからはどんどん山登りの魅力に取りつかれていく。ロッククライミングの技術を身につけると、さらに世界が広がった。
’67年、ヨーロッパアルプスのマッターホルン北壁登攀に成功。
この山行には、「女性の権利を主張する」という目的があった。
「当時は、主婦連が女性の権利を主張してデモを起こすような時代。闘争という運動では権利は認められない、社会は変わらないと考えた私は、マッターホルンに女性同士で登ることを決断。男性の擁護がなくても登れることを世間に知らしめたいと思ったんです」
ところが下山後、日本よりずっと男女平等が進んでいると思っていた欧州でも、まだまだ女性の権利が認められていないと知った。
「それ以降は山行の目的が変わってしまって。アイガーは新ルートで登ること、グランドジョラスは山頂で結婚式を挙げることがテーマになりました」
’71年、29歳のときに登山家で「カモシカスポーツ」創業者の高橋和之さんと結婚。2年後には一人娘も授かった。当時はまだ女性の多くが専業主婦だった時代だ。医師として働き続けるためには結婚は必要ないと考えていたが、高橋さんは理想の結婚相手だった。
「山では、男性だから女性だからもなく、自分のことは自分でやるのが基本。なので、夫は自分で料理もするし、洗濯は私よりも好きなくらいなんです(笑)」
次々と新たな道を開拓する彼女が、両親を航空機事故で失ったのは37歳のとき。南極遊覧旅行に“いってらっしゃい”と送り出してすぐのことだった。
「事故直後はとにかく忙しくて『お姉さん大胆よね。だって、お葬式の日も居眠りしてたじゃない』と言われるぐらいでした。でも、半年たつとすごい寂しくなって」
突然の親の死にひどく落ち込んだ今井さんは、山に登る気にもなれず、「自分は、親を心配させるためにいろいろ危ないことをしてきたのかな」と思った時期さえあったのだとか。
それでもやはり、山への挑戦は続いた。エベレストにチョ・オユーと、世界を駆けまわるうちに、医師業にもこんな影響が。
「私の患者さんって、手術後早く退院できることが多いので、絶対自分の腕がいいんだと思っていました。ただね、ある患者さんに『先生の回診はいいなあ。真っ黒い顔してて、日なたの匂いがするから、それだけで元気になるよ』と言われて(笑)。なんだ、私が元気の源だったのか、と」
現在82歳、エネルギッシュさはそのままだ。’07年には南極観察団として南極に滞在し、’23年には名誉東京都民の称号も受けた。
超多忙な今井さんらしく、高橋さんがアウトドア事業の拠点を長野県穂高町(現・安曇野市)に移してからというもの、30年前から夫婦別宅での生活を続けている。
「私は仕事もあるし、東京を離れないって言ってありますのでね。結婚当初から、2人きりで過ごす時間はほとんどない。お互い好き勝手やっていますから、昔もいまも、生活はさほど変わらないのよ」
それでも結婚してよかったと思うのは、責任が半分になるところ。
「自分でいろんなことはやるけれど、その自分がやりたいことをやる時間やお金というのは、相手がいるからつくれるわけです。自分一人で稼いで、山に行くのは大変ですが、生活費が半分ずつだったから、よかったのかも」
結婚25周年を祝う銀婚式は、奥穂高岳山頂で行われた。
(取材・文:服部広子)
【後編・テレフォン人生相談】「お若いなあと。ビックリですよ」ディレクターが最も印象に残った「80代女性」の恋愛相談とは?へ続く