■キャリアウーマンだけど、ダメな母親。自分を責め続け、自殺未遂を起こした
柴田久美子さんは、1952年、島根県出雲市で、農業を営む両親、祖父母のもと、5人きょうだいの末娘として誕生した。
柴田さんは小児ぜんそくを患っており、11歳の冬、発作により生死の境をさまよった。
「自分の体から抜け出して、天井から涙を流す家族を見ていた記憶があります。やがて雲の上で光に包まれて……、どこからか『帰りなさい』という声が聞こえて、意識を取り戻しました。このときの不思議な体験から、“生と死”に興味を持ったように思います」
その体験から間もない次の春、最愛の父が、胃がんで亡くなる。
「家族全員で、自宅で看取りました。父の最期は、家族一人一人に感謝を伝えていました。息を引き取る直前、末っ子の私の手を握りながら『くんちゃん、ありがとう』と言ってくれたのです。立派で、静かな旅立ちでした」
わんわん泣きながら父を抱きしめて離さない柴田さんを、母が困って引き離したのが忘れられない、と笑って語る柴田さん。
「そのとき、父の手は冷たくなっていくのですが、私の心はだんだん温かくなっていくような不思議な感覚があったのです。この父の『ありがとう』は、今も心にすんでいます」
大阪の専門学校を出たのち、1973年、20歳のとき、日本マクドナルドに秘書として採用された。翌年には結婚し、長男と長女を出産。
秘書を数年務めた後は店舗勤務となり、25歳で「店長」に大抜擢。さらには担当店舗を最優秀店に導き、「藤田田賞」を受賞するなど優れた成績を重ねていった。
家庭を持ち、仕事も順風満帆に思えたが──。
「仕事を頑張るほど家族に注ぐ時間がなくなり、家庭と仕事のはざまで苦悩しました。保育園を見つけるのも困難で、やっとの思いで預けることができても、母を求めて泣きわめく子どもの叫び声が、仕事中も頭にこびりついて離れないんです。外から見たら『キャリアウーマン』。でも、本当は出来の悪い母、出来の悪い主婦……。そのギャップに悩み、自分を責め、負の感情が積み重なっていきました」
当時の日本マクドナルドは創業から間もない黎明期で、現場はまだ男性社会だった。重労働で肉体的にもきつく、柴田さんはどんどん疲弊していった。
そして、30代半ばのある朝──。
「子供を学校に送り出した後、衝動的にクリニックで処方されていた睡眠薬に手が伸びました。もう、救われる道はそれしかないと思ってしまい、何錠もひたすら飲み続けていました」
やがて、一向に出勤してこない柴田さんを案じた同僚が、自宅で意識のない柴田さんを見つける。
病院に搬送されて一命はとりとめたものの、突然自らの命を絶とうとした柴田さんは、夫から「もう一緒には暮らせない」と告げられる。その後は離婚し、仕事も手放すことになった。
「頑張りすぎて、燃え尽きてしまったんだと思います。離婚後、一度は私についてきてくれた娘も、『大学に行きたいから』と父のところへ戻ってしまいました。しばらく収入も少なかったので……」
どん底にたたきのめされた柴田さん。その後再婚し、会社員時代の経験をもとに飲食業を営むも、事業が軌道に乗らず、悶々とした日々を過ごしていた。
しかし、1993年、40歳で、のちの人生を大きく左右するある出会いが。飲食店を畳んだ直後、常連客の一人だった高齢者施設の園長から「暇だったらうちで働かない?」と声がかかったのだ。
予想していなかった介護の世界への扉が開いた運命の瞬間だった。
「店もやめようとしていたので、二つ返事で働き始めました。すると、勤務の初日から、入居者の皆さんが、『ありがとう』って笑顔で言ってくれるんですよ。まだ不慣れで車いすを上手に押せなくても、手を握っただけでも……。そのことにとても驚きました」
その温かな言葉に、涙が止まらなくなったという。
「帰り道、車を路肩に止めて、ずっと泣いていました。会社員時代は、“スマイル0円”で、笑顔やありがとうは提供するもの。それが今度は自分が与えてもらえる側になった。これまでの苦労や、張り詰めていたものがじんわり溶け出すような感覚でした……。そして、この『ありがとう』を周りへお返ししていきたいと強く思ったんです」
そうして柴田さんは本格的に介護の道へ進み、介護福祉士、ケアマネジャーの資格を取得。同年、特別養護老人ホームの寮母となった。
(取材・文:川村一代)
【後編】「残される家族に命のバトンを繋ぐ」日本初の“看取り士”が語る「死」との向き合い方へ続く
画像ページ >【写真あり】「私たちが目指すのは尊厳のある旅立ち。誰だって亡くなるときくらい、わがままを聞いてもらってもいいはずです」(他2枚)
