■「『どうせなら歩いて棺桶に入ろうよ』と提案したら、患者の目が輝き出して……」
萬田医師は、医療を全否定しているわけではない。ギリギリまで死にたくない、治療をがんばりたい、という人はがんばるべきだと。抗がん剤を使いたければ使えばいい、とも思っていた。
「基本的には医者の仕事は患者を長生きさせることです。それでも“がんばりたくない”“きつい治療を続けたくない”と患者や家族が心の中で思っているのなら抗がん剤だけが生きる手段ではないこと、治療ができない=死だと思わないでほしいと伝えていました」
がん告知や緩和ケアという言葉がまだ浸透していない時代、最期をきれいに看取ってあげたい。そう願う新米医師が先輩や“医療の常識”という方針に背けたのは?
「生意気な後輩ですがかわいがられるキャラでもあったのです。体育会系で、患者の死への向き合い方以外はすべてイエスマン。あいつならしょうがねえな、と(笑)。
僕のような考え方をする医者は、100人いれば1人いるかいないか。親が医者でも、医者の多い一族に生まれたわけでもありません。進学校でも260人中250番の成績。医者を目指したきっかけは、大学受験2浪目のときに、機械や数値ではなく、人間を相手にした仕事に就きたいと思ったから。
医師国家試験にも落ちて浪人生活を過ごしましたが、ほかの学生が予備校に通っている間、さまざまなアルバイトをして、国籍も暮らしも多種多様な人たちと遊ぶほうが人生の糧になると思っていました。高校からストレートで医学部に行き社会を知らないまま医師になっていたら、これほど変わった医者になっていたかどうか……」
’08年、萬田医師は、外科医として勢いが衰える前に、緩和ケアに全力で取り組みたいと、17年間のがん治療医のキャリアをあっさりと捨てた。43歳のときだった。
「萬田診療所」では、悲痛な表情でトボトボと入った人が、明るい顔で足取りも軽く出てくる─そんな光景が見られるという。末期がんと診断された患者と付き添う家族との面談で、萬田医師はいつもこう問いかける。
〈飛んでいる飛行機が故障したら、どうしますか?〉
「故障が軽かったら高度を上げようと努力するでしょう。でも、どうにもできない故障だったら安全に着陸できる場所を探すはずです。がん患者も同じです。でも病院では無理してでも高度を上げようとします。患者は、がんばって、がんばって、がんばった末に飛行機が墜落するように亡くなります」
ゆっくり着陸できるようにするのが緩和ケアだという。
「僕の仕事は、死期が迫る患者に、自宅というゆるやかに着陸できる場所に導くことです。医療として正しいかどうかではなく、患者に自宅で死ぬまで“生きる”ことを選んでもらうことです」
死を怖いものと捉えている患者や家族に「よりよく死ぬ」のではなく「よりよく生きる」ことを説く。そんな面談を終えると、患者たちの表情は明るくなる。
「そもそも僕は在宅緩和ケア医と名乗っていますが、そんな資格も専門医制度もありません。緩和ケアは手段のうちのひとつに過ぎません。患者がつらさを感じることなく、家で自分らしく生きていくお手伝いをするだけ。どうすれば最期まで豊かに過ごせるか考える。だから“看取り屋”ではなく“生き抜き屋”なのです」
萬田流のケアは、患者ファーストを貫く。患者の希望をできる範囲でかなえることだ。たとえば、60歳のときにステージ4の乳がんと診断され、寝たきり直前だった女性の望みは、最期まで歩くことだった。
がんと闘うことで、食べられなくなったり、腹水がたまって体力が落ちたりして歩けなくなってしまう患者が多い。歩けなくなると、いずれ寝たきりになる。
「それは棺桶に入る準備です。健康な人が棺桶に入ると、筋肉がこり固まって痛くなって出てきてしまいます。棺桶に入るためには、筋肉を落とさなければいけない。だから『このままずっと寝ている時間を長くすれば、筋肉も落ちて棺桶に入っても体が痛くならないから大丈夫ですよ』と言いました。
そして、歩けなくなったら数日の命であることを伝えて『どうせなら歩いて棺桶に入ろうよ』と提案しました。吹っ切れたように彼女の目が輝き出しました」
その女性は、週1回の外来通院を続け、自分の足で近所に買い物に出かけるようにもなった。
「よく歩くようになると、よく食べるし、よく話す。そんな女性の回復ぶりを見て、周囲の人たちは『治療しないほうがよくない?』と驚いたほど。病院ではなく自宅で過ごしているがん患者の多くは、亡くなる直前まで歩いたり、意思表示ができたりするのは珍しいことではありません。宣告された余命より長く生きることも。
しかし、あっという間に最期のときが訪れるのも特徴です。その女性も亡くなる10日前には、家族や友人たちとレストランへ行っておしゃべりを楽しみました。最期まで自分の足でトイレに行って、旦那さんと2人きりのときにゆっくり息を引き取りました」
