「病室でずっと“お父さん”と私を呼び続け」津久井やまゆり園の悲劇から10年…生存者・尾野一矢さんの家族が振り返る“当日のこと”
画像を見る この、かんちゃん(一矢さん)の笑顔こそが答え(撮影:須藤明子)

 

■息子の“終の棲家”と思っていた施設で命の危険にさらされるあの事件が

 

「言葉が遅かったかんちゃんを連れて、大学病院に通いました。それで、あの子が3歳のころかな、先生から『息子さんは知的障がいがあります』と告げられたんです」

 

こう振り返ったのは、一矢さんの母・チキ子さん(84)。

 

1973年、一矢さんはクリーニング店を営む両親の長男として生まれた。7歳上の姉との4人家族。だが、一矢さんが診断を受けて間もなく、実父が事故で急逝。それでも、チキ子さんに悲嘆に暮れる時間はなかった。2人の子を養うために、必死になって働いていた。そして、1年ほどたったころ、運送業をしていた現夫・剛志さん(82)と出会う。剛志さんは言う。

 

「この人(チキ子さん)と知り合い、初めて一矢にも会いました。4歳のころの一矢はポチャッとしてて、めちゃくちゃかわいくてね。『俺がこの子をなんとかしてやりたい』って真剣に思ったんだ。トラックを降りて、彼女の弟子になり、必死に仕事も覚えた。そして、

 

1983年にクリーニング師の資格を取得して、晴れて入籍したんです」

 

しかし、小学校高学年になった一矢さんは、だんだんと2人の手に負えなくなっていく。剛志さんは悔しそうに顔を曇らせた。

 

「パニック起こして暴れたり、自傷行為も。私たちは共働きでしたし、店にはむやみに触ればけがするような道具もあった。お客さんから預かった服を汚すわけにもいかない。一矢とともに暮らしていくには店を畳まなくちゃならないと、追い詰められていたんです」

 

父母は苦渋の決断を下す。中学生になったばかりの一矢さんを、障がい児施設に入所させたのだ。

 

「手元で育てたい気持ちはやまやまでしたから、最初は2年と期限を切った。でも、2年たっても一矢の状態は変わらず、施設の先生は『まだダメです』。それで、もう2年、さらに2年と……。何度目のときかな、先生から言われてしまったんです。『一矢くんの障がいは重すぎる。お父さんたちとは暮らせない。大人の入れる施設を探しなさい』と。本当にショックでした」

 

こうして1996年4月、23歳になった一矢さんは「津久井やまゆり園」に移り住んだ。両親はここが息子の“終の棲家”と思っていた。

 

同じころ一矢さんの介護リーダー・大坪さんは、生まれて初めて重度の障がい者と向き合っていた。

 

「僕が介護の仕事に初めて就いたのは、20代後半。先輩から紹介されたんです。四肢まひで発語も難しい、でも、その世界ではとても有名だった新田勲さんの、専従の介護者にならないかと」

 

新田さんは長年、日本の障がい者運動を牽引してきた。2歳のとき罹患した百日咳がもとで脳性まひになり、1968年に東京都の障がい者施設「府中療育センター」の開設と同時に入所。しかし、当時の施設の人権を無視したような処遇に憤り、都庁前で1年9カ月もの期間、座り込みで抗議。

 

この「府中療育センター闘争」と呼ばれる一連の運動や粘り強い交渉で、現在の「重度訪問介護」など公的な介護保障の礎を築いた。自身は1973年に施設を出て、地域での自立生活を開始。重い言語障がいもあった新田さんは、足を筆のように動かす「足文字」で介護者に指示を出し、交渉の席などで介護者は、彼の“通訳”にもなった。

 

「彼の存在感に圧倒され、会った瞬間『引き受けないわけにはいかない』と思いました。

 

でも、果たして自分に務まるのか、始めたあともなかなか自信が持てなくて。それで『新田さんの求めるものに僕が応じきれていなければ、いつでもクビにしてください』と言ったことがあるんです。

 

すると新田さんは足文字で『きみがそれを望まない限り、僕からきみを辞めさせることはしない』と。そうまで言われて、放り出すわけにはいかないと、僕も腹をくくりました」

 

大坪さんは、新田さんが亡くなる2013年まで、およそ15年にわたって介護者を続けた。行政交渉にも同席して彼の言葉を代弁し、深夜まで駅頭でともにビラを配った。いつしか大坪さんは障がい者運動の第一人者の、かけがえのない同志になっていた。

 

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