「病室でずっと“お父さん”と私を呼び続け」津久井やまゆり園の悲劇から10年…生存者・尾野一矢さんの家族が振り返る“当日のこと”
画像を見る この、かんちゃん(一矢さん)の笑顔こそが答え(撮影:須藤明子)

 

■「お父さん、お父さん」と呼び続ける一矢を見て間違っていたと痛感した

 

「朝の5時ごろでした。友達から『息子さん、やまゆり園よね? すぐテレビ見て!』と電話があって。慌ててお父さんを起こして、テレビをつけたんです」

 

10年前のあの朝を、チキ子さんは少し苦しそうに述懐した。テレビには見覚えのある建物、そして、そのとき判明していた被害状況「15名死亡」のテロップも。すでに出頭していた植松の画像も流れたという。剛志さんが続ける。

 

「びっくりだし、なにがなんだかわからないし、電話してもつながらないし。とにかく行こうと、近くに住んでる孫の車を借りて園に向かいました。でもね、ニュースが『元職員』と報じた犯人の顔を見ても正直、ピンとこなかった」

 

事件の前年まで、剛志さんは家族会の会長を18年間、務めた。月に何度も施設まで足を運び、職員は誰もが顔見知りだった。

 

「だから、ニュースで植松の顔を見ても『こんなやつ、いないよ』と。記憶にあった植松は、はつらつとして、園に就職してきたときも『いい子が入ったな』と思ったぐらい。でも、その面影はまるでなかった。あいつの顔は整形で、まるっきり違ってしまっていた」

 

規制線が張られるなか、父母は7時30分、やまゆり園に。しかし、息子が暮らす2階に上がろうとする剛志さんを、警察官が引き留めた。「ダメダメ、見られるような状態じゃない」

 

たしかに、廊下にも血痕があった。その後、奥の部屋に通されると、そこには剛志さんの後任の家族会の会長たちが。そして、テーブルにはA4の紙が8枚。利用者の名簿だった。

 

当時のやまゆり園には「ホーム」と呼ばれる8つの居住区画があり、それぞれ18人前後が生活していた。剛志さんは一矢さんのいた「いぶきホーム」の名簿に目をやった。

 

「利用者の氏名がズラッとあって、名前の横に『○×△』のマークが。『これは?』と聞くと『○は被害がなく、いま体育館にいる子、△は救急車で運ばれた子』と。『じゃ、×は?』と重ねて聞くと『亡くなった子です』。一矢のいたホームの名簿には×が4つ、ありました」

 

一矢さんの名前には「△」の印があり、隣には「立川災害医療センター」と記されていた。その足で病院に駆けつけると、一矢さんは手術を受けていた。術後に医師が状態を説明してくれた。

 

「先生は人型のイラストを示し『首、喉、それに手の傷はそれぞれ4針、3針、5針縫いました』。さらに、イラストのお腹のところがバツッと切れていて。『お腹の刺し傷は深さ4センチ、大腸がちぎれている状態でした』と」

 

その3日後。意識の戻った一矢さんとの再会がかなった。

 

「私の顔を見るなり、一矢が『お父さん、お父さん』と。何度もハッキリと、私を呼んでくれて」

 

これに両親は驚いたという。チキ子さんが言う。

 

「長年、施設で暮らすうちに、かんちゃん、しゃべらない人になってたんです。集団生活だから、大声を出すと、職員さんから『ダメ!』って叱られてたんだと思う。しゃべったとしても小声でゴニョゴニョ言うだけだった。それなのに……」

 

ここで言葉を継いだ剛志さん。その目にはうっすらと光るものが。

 

「帰るとき、時計を見たから間違いないんだけど、私たちが病室を後にするまでの40分間、一矢はずっと『お父さん、お父さん』と。懸命に私を呼び続ける一矢を見て『ああ、俺は間違ってた』って痛感したんです。『俺は一矢のこと、ちゃんと見てなかったんだ』と」

 

剛志さんは長年、会長として家族会に尽力した。「少しでもよい施設にすることが、息子の幸せにつながる」と信じたから。だが、会長の仕事は多忙で、足しげく園には通っても、一矢さんとゆっくりとした時間を持つことはなかった。

 

「それで私ね、『一矢、ごめん!』って、息子の頭を抱きしめて、子どもみたいにわんわん泣いて謝ったんです。妻も同席した孫も、いっしょになってみんなで号泣。それで誓ったんです。これから先は、一矢のためだけに生きようって」

 

(取材・文:仲本剛)

 

【後編】「一緒にいて不幸だと思ったこと一度もない」津久井やまゆり事件から10年…施設を離れた生存者・尾野一矢さんの家族が語る“植松死刑囚への回答”へ続く

 

画像ページ >【写真あり】「かずやんち」の前で介護者の大坪さんと。この日は一矢さんの希望で、ドライブしてカキフライのランチに(他4枚)

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