「普段は頼みごとを言わない主人が亡くなる1カ月ほど前、『仲の良かった友人たちと最後のお別れがしたい』と私にそっと打ち明けたんです。親しかった方々に“厳しい状況”だと電話をすると、病室に飛んできてくださったんです。皆さんには本当に感謝しています」

そう気丈に語るのは、6月28日に腎盂がんのために亡くなった小野ヤスシさん(享年72)の妻・芳子さん(55)。プロフィルでは小野の出身地は鳥取県境港市となっているが、それは彼の母親の実家。小野家の本家は佐賀県だ、と芳子さんは打ち明ける。

「主人の亡きお父様の名前は九州男。主人はまさに、お父様の血を受け継いだ“九州男児”でした。2人で外出しても私がおしゃべりするのを嫌がっていたんです。“女は男の後ろを3歩下がって歩くもの”だと思っていましたね」

実は小野さんは公にしなかった自分の生い立ちを本誌記者に打ち明けたことがある。自分の生まれ故郷は北朝鮮の港町・元山だと。「僕はエンターテイナーだから人に苦労は見せたくないし見せる必要もないでしょう」と白い歯を見せながら当時の記憶を語っていたのだ。

「父は生前、幼い私に何度となく、そのときの話を聞かせてくれました。《当時、元山の人口の3分の1が僕たち日本人。引き揚げのときは着の身着のまま、食糧もほとんどない状態。今の韓国を目指し、深夜、月明かりを頼りに、険しい山道を登り降りした》と。僕は途中、栄養失調で生死を彷徨ったそうですよ」

「当時、主人のお父様が元山で船員学校を運営していた関係で、一家が一時期、現地に住んでいたそうです」 と芳子さん。元山での小野さんは、両親と兄姉、祖母の6人暮らし。

「戦後、主人がまだおしゃべりを覚えたころに引き揚げたそうです。家族を連れての避難は命がけ。避難する際、お父様は主人を残すか、おばあちゃんを残すかという辛い選択に迫られたそうです。結局、おばあちゃんを残し、一家は引き揚げ船に乗って京都・舞鶴港に着きました。後日、おばあちゃんも帰国できたそうですよ」(芳子さん)

小野さんは記者にこんな話もしてくれていた。

「僕は今、幸せな家庭を築いていますが、息子や娘にも歴史を知ってほしいからたまに話して聞かせているんです。いつか死ぬ前に、“故郷”の元山に行ってみたいですね」

記者の思い出話を聞いた芳子さん、嬉しそうに答えた。

「主人は、苦労話は苦手なんでしょう。亭主関白でも、強くやさしく包容力のある人でした。そう言えば、10年ほど前、主人の姉が亡くなったときに『元山に一緒に帰ってみたいね』と話していたような気もします」

最期まで“九州男児”だった小野さん。今も天国から愛妻を見守っていることだろう。

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