「二郎さんは日本一おかしいコメディアンでした。その二郎さんを、僕は”特等席”でずっと見ていたわけ。二郎さんはおかしいだけじゃなく、すごく居心地のいい人で『欽ちゃん』をとても愛してくれた。僕にとってすてきな先輩であり、兄貴だった。でも、そのことに気づいたのは二郎さんが亡くなってから……。だから、僕はとても間抜けな相棒なの(苦笑)」

コメディアン、俳優、歌手としても活躍した坂上二郎さんが脳梗塞のため死去したのは、’11年3月10日(享年76)。くしくも東日本大震災の前日だった。それから1年4カ月、500日余がたった。お笑いコンビ『コント55号』で相方を務めた萩本欽一さん(71)が、45年間連れ添った二郎さんとの秘話、今だから語れる思いを明かしてくれた。

「7歳年上の二郎さんとの出会いは、僕が21~22歳のころ。『コント55号』が誕生したのは、それから数年後の66年10月でした。このとき僕は、二郎さんといくつか約束した。『2人で夢を語らない』『ネタについて意見を言わない』『下ネタはやらない』『ダジャレもしない』、そして、『一緒に食事をしない』って」

“一緒に食事をしない”と言ったのは、プライベートで親しくなると、相手の欠点や気に入らないところが見えてくるから。それが積み重なると相手が嫌いになって「コンビをやめようか」ということにもなりかねないからだ。そのため、”仕事以外は別々”と決めたという。

「二郎さんと最初で最後の食事をしたのは、僕が50歳になったとき。お互い年を取ったし、『二郎さんと一度食事をしよう』と思って、新宿の中華料理店を予約して招待したの。奥さんの話では、二郎さんは『きょうは欽ちゃんと食事ができてすごく楽しかったし、幸せだった』と、とても喜んでいたそうです」

二郎さんは、’03年9月、ゴルフのプレー中に脳梗塞を発症。左半身にまひが残るも懸命のリハビリを経て、’04年6月、東京・明治座の舞台で復帰を果たした。それから6年たった’10年8月、脳梗塞を再発し、7カ月後に不帰の人になった。

「今、二郎さんのようなコメディアンはいないし、これから先も現れないと思うな。そんな二郎さんがいなくなって、改めてお笑いをするのは、二郎さんに失礼な気がしてね。はっきり言って、もう”お笑い”はやりたくない。お笑いをつくる仕事はしてもいいけど、自分でするのはいや。だって、もう二郎さんはいないんだもの」

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