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「絶対に自分は売れて戻ってきます」。22年前、そんな言葉を残し、お笑い芸人を夢見て上京した少年は、いちばんチケットが取れない芸人になった。

 

「練り込まれ、人間観察の行き届いたコントの完成度はどの芸人も敵わない。ビートたけしや松本人志に可愛がられ、業界の評価も盤石なものにした」(芸能ウオッチャーの宝泉薫氏)

 

バカリズム・升野英知(40)の活躍の場はバラエティ番組にとどまらない。俳優として『下町ロケット』に出演、さらにドラマ脚本までも手がける八面六臂の活躍を見せている。今でこそ人気芸人となった彼だが、ここに至るまでには数々の苦労があった。

 

バカリズムが生まれ育った福岡県田川市は筑豊炭田の炭鉱町。

 

「実家は大きな一軒家で、学校や市役所に届けるお弁当屋さんを営んでいた。祖父母が亡くなったのを機にお店を閉めて、近くの団地に引っ越した。升野くんは挨拶をするくらいで、目立つ感じではなかった」(近所の住人)

 

中学では野球部に入部。今はマッシュルームカットだが、なんと校則で丸刈りに!

 

「丸刈りで可愛らしかったですよ。小柄で顔は今と変わっていない。おもしろいことを言って、クラスのみんなをよく笑わせていた。集合写真ではヤンキー座りなんかしてヤンチャな格好ばかりですが、クラスの女子とはあまり話せないタイプ。少し照れ屋だった。それと、当時は冗談と受け取っていたんですけど、『オレ、吉本に行って芸人になる』って言ってました(笑)」(学校関係者)

 

しかし、升野少年が打ち込んだのは、お笑いではなく野球だった。中学では毎晩午後8時までの練習に耐えた。年ごろの彼は、共学の高校への進学を当初狙っていた。だが「もっと本気で野球がしたい」という熱意で、当時はまだ男子校だった福岡県屈指の強豪校、飯塚高校に入学する。バカリズムを3年間指導した野球部監督は当時をこう振り返る。

 

「中学時代の同級生と一緒に野球部に入ってきましたね。入学してきたとき、彼は本当に体が小さかった。技術と身体能力も、非常に低かった。バットが重くてボールに当たらないし、一塁から二塁までボールが届かない。走っても遅くて……。20人いた同学年でも下のほうのレベルでした。正直、続けられないだろうなと思いました」

 

それでもベンチでは、バカリズムがテレビでもネタにしている、持ち前の大きな「声出し」でムードメーカーになった。やめたいとは一度も口にしなかったという。そして高2の冬、バカリズムは監督も予測できないほど急成長することに。

 

「升野くんが階段から転んで足首をケガしたんです。松葉杖がなければ動けないという状況が2カ月くらいあったのですがその間、上半身のウエイトトレーニングに打ちこんで一回り体を大きくした。その甲斐あって、3年生になるとガンガン打つようになって、レギュラーになりました。最後の夏の大会では、レフトでスタメン出場できる選手になりました」

 

腐らずに結果を残して周囲に認められたバカリズムは、卒業後はもうひとつの夢、お笑いの道を歩む。冒頭の言葉を恩師に誓って上京したのだ。

 

「とりあえず男子校だったので、このまま学生時代の甘酸っぱい思い出がないまま社会に出て働くのはイヤだなと思ったんです(笑)。それで専門学校をいろいろ探していたら、日本映画学校というところを見つけて」(「MEN’S NON-NO」2015年4月号)

 

日本映画学校(現・日本映画大学)には漫才の授業があり、ウッチャンナンチャン、出川哲朗など多くの芸人を輩出している。中学のときに父を亡くし、母子家庭だったバカリズムは上京後、仕送りに頼らず、町田市の家賃3万円風呂なしアパートで生活。カラオケのバイトで食いつなぐ下積み時代を送った。1995年に学校で知り合った松下敏宏とお笑いコンビ「バカリズム」を結成も、2005年解散。

 

ピン芸人となり、今では、レギュラー番組9本を抱え、事務所内でも「ウンナン」に次ぐ稼ぎ頭に成長したバカリズム。辛いときは野球部時代、ケガから立ち直ったころを思い出し、耐え忍んだのか。野球同様、お笑いでも不屈の努力でつかんだ「レギュラーの座」なのだ。

 

(FLASH 2016年2月23日号)

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