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NHK朝ドラ『あさが来た』の五代友厚役で大ブレーク中のディーン・フジオカ(35)。 彼が少年時代を過ごしたのは、千葉県鎌ケ谷市。小中学校を通じて打ち込んだのがバスケットボール部だった。ディーンが通っていた接骨院の院長(51)が、“フジタツ”(当時のニックネーム)の思い出を語ってくれた。

 

「フジタツは、バスケの練習中に打撲や捻挫をしては、そのたびに治療に来ていました。大人顔負けの聡明な生徒だったから、よく覚えています。バスケに一生懸命で、オーバーワークともいえる猛練習に明け暮れていましたね。診察中でも、とても熱心に『どんなトレーニングをすればバスケが強くなれますか?』などと、いろいろ質問してくるので大変でした(笑)。まだ中学生なのに、疑問点を自分で整理して、納得できるまで僕に聞くんです。ひたむきな努力家で、バスケをこれほどハードにやりながら、よく学業と両立できるなと感心したものです。一度、彼のテストの目標点数を教えてもらいましたが、高いレベルでびっくりしました」

 

そして入学した高校は、県内有数の進学校である県立船橋高校だった。高校時代に行きつけだった美容室の元スタッフに聞いた。

 

「お母さんが竜雄くんと一緒に、10歳ほど離れた弟を連れてきたこともありました。竜雄くんは弟の面倒見が良くて、すごく可愛がっているのがわかりました。高3のとき、ジュノンボーイに応募する直前にも来ていますよ。その際、カタログを見て『こんな感じにしてほしい』と自分で注文したのを覚えています。その通り、黒髪で耳を出した爽やかな短髪にしてあげました。本人は『妹が勝手に応募しちゃって』と言っていましたけど(笑)」

ジュノンボーイでは、最終選考には残ったものの、日本での芸能界入りはしなかった。その理由について、当時の藤岡家と親しかった知人が言う。

 

「幼い頃から、竜雄くんは海外に行きたいという強い希望がありました。なので、本当は日本の高校にも行きたくなかったんです。芸能活動も、とくに興味あったわけじゃないですしね。父親から“高校までは日本で”と言われ、卒業後に待望の米国留学を果たしたんです」

 

父親はITの専門家として、論文も数多く執筆している会社員。父も母も日本人だが、米国留学の際に現地で“ディーン”と呼ばれたため、中華圏で俳優活動を始めた際に、それを芸名にしたのだという。 先日出演した『金スマ』(TBS系)でもギター演奏する姿が流れたディーン。高校では、フォークソング部に所属し、音楽に夢中だったという。同級生とギターの話で盛り上がることも多かった。

 

「フォークソング部といっても、ポップスやロックが中心。文化祭でもバンド演奏を披露していましたよ。衆目一致して、校内一のイケメンでしたから、モテたんじゃないかな(笑)。成績もよかったしね」(恩師の1人)

地元では、誰もが“フジタツ”のブレークを心から喜んでいた――。

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