寂聴さん「私には最後まで愛する人がいた」30年交流の元スタッフに託した遺言
画像を見る 18年、京都・寂庵の庭で(撮影:加治屋誠)

 

■「貸さない!」200万円の借金を申し出たスタッフへの返答

 

法話の会の再開を待ち望んでいた知人や寂聴さんファンは全国に大勢いた。そのためもあり、99歳の大往生であるにもかかわらず、寂聴さんの訃報は人々に衝撃を与えたのだ。

 

寂聴さんが60代から90代に入るまで、寂庵のスタッフとして働き、寂聴さんも編集に携わっていた定期刊行誌『寂庵だより』の編集長を務めていた加藤博子さんも、その一人だ。

 

「先生は、いわゆる“不良”が好きで、次々にダメ男の面倒をみてあげてましたけれど、実は不幸な女にも優しい人でした。

 

私は夫とは長く別居しているのですが、息子が美容学校に進学したいと言いだしたのです。学費は200万円もかかるのですけれど、そんなお金は持っていません。困り果てて、先生に泣きついたのです。

 

『200万円貸してくれる?』、すると一言、『貸さない! あげる!』。翌日、お金が振り込まれていました」

 

’13年3月、寂庵の経営状況を心配したベテランスタッフたちが自ら退職を申し出たことがあった。

 

「私は小説も書いていましたが、“売れない作家”です。寂庵退職後はいつも生活にピーピーしていました。それでも小説の相談をしたくて、1年に何度か大阪のはずれから、お邪魔していたのです。相談が終わって辞去するとき、先生は必ず言うんです。

 

『博子ちゃん、ここの仕事を辞めた後、やっていけてるの? 寂庵まで来る交通費だって大変でしょ。これを使いなさい』

 

懐ろからさっとお金を出して、握らせてくれました。それが5万円もあって……、そんな大金を、私が訪れるたびにくれたのです」

 

寂聴さんの応援はお金だけはなかった。加藤さんが文学賞に応募しても落選続きで、「もう小説を書くのをやめたい」と、弱音を吐いたとき、寂聴さんは叱咤したという。

 

「私は『生きることは楽しい』と、よく書いているけど、そんな日ばかりじゃない。カチカチ山の狸みたいに背中に火がついて、その炎に追われるように歩いて、一日一日生きている。生きていることは、こんなにしんどいことなのよ。あなたもメソメソしないで書き続けなさい」

 

そしてまっすぐに加藤さんを見つめ、ぎゅっと手を握りしめた。

 

「あなたは30年も寂庵にいてくれて、他人が知らないこともたくさん知っている。それを書きなさい。なんでも博子ちゃんの好きなことを書きなさい」

 

そこで加藤さんは『寂聴、喝!(仮)』と題した長編小説を書いた。しかし、

 

「出版社に持ち込んだのですが、“プライバシーに踏み込みすぎている”という判断で、いまはお蔵入りになっているのが残念です」

 

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