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「僕が生まれ育った女川町では昨年3月に鉄道(JR石巻線)が復旧し、全壊した駅舎も新しく建て直された。3階建てのモダンな建物で、温泉の施設まであるんです。そして今年の1月下旬にも現地に行ってきましたけれど、駅前には二十数棟の商業施設ができていた。そういう意味では、ほかの地域よりもかなりスムーズに復興が進んでいる印象を受けました」

 

宮城県牡鹿郡女川町出身の中村雅俊(65)は言う。進学で上京するまで18年間過ごした故郷は東日本大震災の際、瞬間で20メートル超の津波に襲われ壊滅的な被害を被った。死者・行方不明者は900人を超え、被災地で最も死亡率が高かったのは女川町だった。

 

「父は僕が4歳のときに亡くなり、母は東京にいましたので、じかの身内は無事でしたけれど、震災でいとこを3人亡くしました。震災後、女川に最初に足を運んだのは1カ月後の’11年4月14日。それ以前にも、地元の小・中学校の同級生たちと頻繁に連絡を取り合っていて。『女川の町は俺たちが守る!!』という垂れ幕も、彼らと話し合って『俺が作る』と。震災後初めて生まれ故郷を訪れたときのことは、いまでも鮮明に覚えています」

 

当時はどこまで行っても瓦礫ばかりで、自分がいまどこにいるのかもわからない。目印になるものがまったくなかったという。

 

「できる限り時間を作って避難所へ足を運んで、被災された方たちと話をしたり、歌を歌ったりもしました。歌を聞いて、みなさん涙を流さんばかりに喜んでくださった。それを見て僕は“歌の力”のすごさを感じると同時に、自分が『歌手でよかった』と思いましたね。あの日から『自分に何ができるか?』を自問自答して『とにかく自分にできることをやろう』と思って被災地や被災された方たちと向き合ってきた5年間でした」

 

義援金活動や被災者支援ライブなどに加え、県内の小学校の新校歌作曲、個人での学童保育施設の寄付など、幅広く被災地支援にかかわってきた中村雅俊。だが復興を見つめてきた彼には、5年たったからこそ去来する思いもある。

 

「女川町を例にとると、基幹産業の水産業は、漁獲量は戻ったけれど、加工する工場がまだ足りない。そこで、地元に戻りたくても仕事がないという現実がある。いまも仮設住宅で暮らしている方は大勢いるし、お年寄りには孤独を感じて引きこもりになっているケースも多い。こうしたことは被災地すべてに言えることだし、震災から丸5年たっても問題はまだまだ山積しています。だから『復興した』のではなく、その土地で生きる人たちがちゃんと普通に生活をして、心から『生きていてよかった、楽しい』と実感できるようになること。それができてこそ“本当の意味での復興”だと思います」

 

5年たったいま、彼自身の被災地への向き合い方に変化はあるのだろうか。

 

「先日、あるテレビ番組に出演したとき、色紙に『いまの心境を書いてください』と言われました。そのとき書いたのが『ただ頑張る』。震災やいまの自分の環境から自然に湧き出たこの言葉をモットーに、日々精いっぱい生きていきたいと思っています。それと被災された方たちには、まだまだ精神面でのケアが足りない。自分が被災者の方たちとお会いして話をしたり、歌を歌ったり、一緒に歌を歌って『きょうは中村雅俊に会えてよかった。楽しかった』と思っていただくことが心のケアになるのではないかと。そう考えると、俺の出番はまだまだあると思うし、これからも自分にできることを『ただただ頑張る』。それが自分の“使命”だと思っています」