「どうも、お疲れさまです。はい、よろしくお願いしますね」
NHKホール(東京都渋谷区)の通用口に姿を現したのは、白い作務衣に黒いダウンジャケットを羽織り、ベージュのハンチング帽をかぶった高齢男性。
ゆっくりとした歩みで、楽屋へと続く通路を歩いていくと、ステージのメンバーがお辞儀をするのを見て、軽くあいさつをする。
「人生、もう生き尽くしたなって感じで、いつ死んでもいいと思っているんです。だからこの白い作務衣も、ボクにとっては死 装 束のようなもの。こうした大きなホールで演奏する音楽活動も、今日で最後です」
希代のシンガー・ソングライター、小椋佳(79)が語る。
東京大学法学部を卒業後、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)に入行してエリートコースを歩む一方、表舞台に出ないアーティストとして活躍。甘い歌声が魅力だが「楽譜は書き起こせないし、楽器も苦手」という異色の音楽家だ。
にもかかわらず、紡ぎ出した楽曲はのべ300人以上の歌手に提供され、代表曲には美空ひばりの『愛燦燦』、梅沢富美男の『夢芝居』、布施明の『シクラメンのかほり』など、枚挙にいとまがない。
50年以上に及ぶ輝かしい音楽人生を締めくくったのは、’21年11月にスタートしたファイナルツアー「余生、もういいかい」の42公演目となる最終日、1月18日。所属事務所社長をつとめる長男家族など、孫を含めた大勢の親族たちも会場に応援に駆けつけた。
「やっぱり、孫が来てくれるとうれしいですねえ。家内にとっても特別な日だから、10年ぶりくらいに着物を着たそうです」
ゲストの中村雅俊や堀内孝雄らがリハーサルにのぞむなか、小椋が喫煙室でたばこ休憩をとっていると、小さな孫がのぞきにやってくる。
「へえ、これから何か食べにいくんだ。行ってらっしゃーい」
その様子は、まさにおじいちゃんだが、本番時間が迫り、黒いスーツのステージ衣装に身を包み、サングラス姿になると、「小椋佳」に変身する。
「こんな老いぼれのために、4千人近くの方にお越しいただいている。あの幕が下りたら、感無量になって涙が出るかもしれない」
コンサート前にこう語っていた小椋。舞台袖から、これまでの音楽人生を彩る眩い光に包まれた最後のステージに、歩みだした。