シンガー・ソングライター小椋佳 もう燃え尽きた…でも、余生も愛燦燦
画像を見る ファイナルコンサートでは自叙伝で描かれた、これまでの音楽人生が思い出されたという小椋さん

 

■妻には「なんで57歳にもなって、夫に捨てられなきゃいけないんだ」と泣かれた

 

数々のヒット曲を生み出す一方、銀行の仕事には、40歳を過ぎたころから疑問を持ち始めたという小椋。

 

「平家物語に『見るべきほどのことは見つ』という言葉があるんですけど、サラリーマンとしてずっとやってきて、組織の中で蠢くボクも含め、トップから下の人、お客さまのありようも、全部見終わったなっていう感じがあって。そうなると、サラリーマンとして残るのは出世のためにあくせくするだけなんです。そんなエネルギーを使うのは、ボクの人生ではないと思って、’93年、49歳のときに銀行員をやめたんです」

 

銀行員時代には表立った活動ができなかった小椋に、コンサートツアーの依頼が次々に舞い込んだ。

 

「バブルの時代に、地方自治体の首長がハコモノを造るのが盛んだったらしいですよ。自治体も催し物を主催するけど、赤字ばっかりじゃ困りますよね。そんなとき『小椋佳のミニコンサートをやると、一応お客さんでいっぱいになるし、収支がプラスで終わる』ってことがわかってきて、年間100本やったことも。もう50歳からですよ、ボクのステージ活動って」

 

57歳のとき、新設された看護学校の校歌を作った縁で、人間ドックを受診した。

 

「その後に沖縄公演があったんですが、打ち上げ後にホテルに帰ると、家内から『朝一番機で東京へお戻りください』と電話が来た。それで病院に行って、若い先生が家内としゃべっているとき、書類をのぞいたら『入院事由:胃がん』って書いてあるんですよ」

 

すぐに死を連想した。でも、恐怖も驚きもなかったという。

 

「銀行員時代は接待やなんやで飲み歩き、血糖値が400もあったんですよ。母親は59歳のとき、糖尿で亡くなっているから、ボクも50後半で糖尿で死ぬと覚悟していた。それが胃がんだっただけ」

 

手術は8時間にも及び、胃はほぼ全摘出。現在も食事することが挑戦だという。

 

「普通の人の3分の1くらいしか食べられない。寿司屋に行ったって、シャリが食べられないんですから。ただ、なぜか貝類だけは胃を通るんで、貝のお刺身と、熱かんの酒を飲むだけ。ふだんは、家内が作ってくれるお弁当をね、2度に分けて食べるんです。

 

でも、そのおかげで、銀行員時代には80kgあった体重が、今は50kg台ですからね。すると糖尿病が改善しちゃった。変な話、がんのおかげで長生きしてるようなものなんですよ」

 

大病をしたこともあり、食事面を含め、妻の佳穂里さんはかいがいしく寄り添ってくれたが──。

 

「小さいときはおふくろ、結婚してからは家内に依存。衣食住には全く無関心の人生を生きてきちゃったわけですよ。そのコンプレックスがあって、一度は1人で生活してみようと思い立ったんです」

 

そこで週末婚を始めるのだが、当然、妻には「なんで57歳にもなって、夫に捨てられなきゃいけないんだ」と泣かれたという。

 

ところが、金曜日の夜に自宅に帰り、月曜の午前中に一人暮らしの部屋へ戻るという生活は、絶妙な夫婦の距離感が保て、関係はより良好なものに。だからこそ、充実した音楽活動を続けることができたのだ。

 

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