■35歳で亡くなった先輩芸人の思いを受け継ぎ、ライブ運営に本腰を入れる
文通相手と訪れたライブ会場では、年長の女性スタッフから手伝いの内容を指示されたが――。
「“どんな芸人さんが来るんだろう”ってすごく期待していたのに、知っている芸人さんがいなくて、がっかりしたんです」
すっかりやる気を失った気奈さんは、勝手に楽屋に入って上座の座布団で時間を潰すことに。しかも「土足厳禁」の意味がわからず、靴を履いたままだったという。
そんな姿をたまたま落語家さんに見つかり「お前は今日来た新人か? なんで畳の上なのに靴を履いているんだ」と怒られるも、気奈さんは不貞腐れたまま。すると、灰皿がバーンと飛んできた。
「それで妙なスイッチが入ったんです。“『いてくれてありがとう』って言ってもらえる存在になってやる!”って。見返してやろうと思ってしまったんです」
根はお笑い好きなのだ。その日を境に、芸人やスタッフに声をかけまくり、現場に駆けつけてお手伝い。「所作が汚い」「使えねえ」と罵声を浴びることもあった。
「それでも、お客さんが3人しかいないのにメチャクチャ緊張していたり、『お前がネタを飛ばすからいけないんだ』と舞台袖に戻った瞬間にけんかを始めたり、芸人のお笑いに対する向き合い方を間近で見ていると、どんどん応援したくなりました」
高校3年の秋には大学の指定校推薦が決まったため、ますますライブ会場に入り浸る毎日。
「ライブが終わるのは夜9時、10時。そのあとに打ち上げに行くと家に帰れなくなるので、4畳半の先輩芸人の家に転がり込んでいました。みんな貧乏なんですが“これこそ芸人だ”という空気感で居心地がよかったんです」
お笑い好きの父は、気奈さんがずっと家にこもってお笑い番組の編集をするより、ライブの手伝いをしながら人と関わるほうが安心だと、応援してくれた。
芸人として舞台に立つこともあったが、厳しさを痛感した。
「“もしかしたらテレビに出られるかも”って自信を持って舞台に上がっても、ずっとすべってました(笑)。それで“私には芸人は絶対無理だ”って思ったんです」
こうして、裏方の仕事が増え始めた。
「仲間内でお笑いライブを開催したいと話が持ち上がると、一番年下だった私が面倒なことは全部やるからと劇場を借りるときの代表者になって、受付や照明、音響、舞台転換などを担当するようになったんです」
2カ月に1回ほどのペースでお笑いライブを開催していき、本格的に主催者としてK-PROライブを立ち上げたのは’04年のこと。初回ライブこそ、超満員で大成功したが、2回目は宣伝を怠り、お客さんもまばら。芸人から「どんなにお客さんが少なくても、一生懸命にやるから」と、逆に慰められ、奮起した。
「動員を増やすため、憧れの芸人に出てもらいたいと、カンニングさんの所属事務所に私の履歴書を同封してオファーしたんです。でも『知らない女のコに、うちのカンニングは貸せない』と断られてしまいました。当たり前ですよね」
同じ方法でオファーしたのは、『ボキャブラ天国』で人気を博した元フォークダンスDE成子坂のツッコミで、ピン芸人として活動していた村田渚さん(享年35)。
「事務所からは断られたんですが、私の送ったFAXを渚さんが偶然目にして『本人が出たいと言ってるので』と連絡があったんです。すると別の芸人さんからも『渚さんが出るなら』とOKがもらえて」
ライブは大成功を収めた。後日、立役者の渚さんと飲みに行ったときのことだ。
「バナナでモノボケをしろとか、居酒屋で6時間くらい、大喜利をさせられました」
まるで気奈さんのお笑いへかける思いを測るように渚さんはお題を出し、時折「あの日のメンバーなら、500人は集客できる」「今で満足しちゃダメなの、ちゃんとわかってるよね?」と、厳しくも頼りになるアドバイスをしてくれた。
その渚さんが’06年、くも膜下出血で35歳の若さでこの世を去ったことは、気奈さんの心境に大きな変化を与えたという。
「それまでお笑いライブの主催は趣味の延長でしたが、渚さんに出会って、『俺らが好きでそんなにお金使ってたなら、今度は俺らを使ってお金を稼がないと』と言ってくれたことでビジネスとして成立させたいと思うようになりました。
忘れられないのは、亡くなる数日前、渋谷の交差点で別れたときの後ろ姿。まだまだ芸人としてやりたいことがあると、夢を語っていました。芸人の夢を形にできる舞台を作りたい。渚さんからそんな思いを受け継いだんです」
(取材・文:小野建史)
【後編】M-1王者を輩出、若手芸人に活躍の場を…“お笑い界の母”児島気奈さんがK-PROライブにかける想いへ続く