25年ぶりに新作が公開 映画監督・君塚匠「55歳で僕もADHDと診断。生きづらさの理由がわかった」
画像を見る 5月25日に富山市で行われたイベントで主演の内浦純一さん、蜂丸明日香さんらとトークを繰り広げた君塚監督

 

■20代で監督デビュー。高評価を受けるが……

 

君塚匠さんは、1964年11月29日、東京都大田区出身。蒲田で天ぷら料理店を営む自営業の父・正男さんと母・芳江さん(ともに故人)のあいだに生まれた長男で、上に姉・柳瀬清美さん(63)がいる、2人きょうだいだ。

 

「父は少年期に住み込み働きに出され、勉強の機会に恵まれなかったのが不本意だったそうです。そのぶん、息子の僕が学業面で不自由しないよう、つきっきりで僕に、勉強を厳しく指導しました。家庭教師も雇ったんです」

 

では、幼少のころの君塚さんに発達障害の兆候は見られなかったのだろうか?

 

「当時は教師でも発達障害という言葉を知らなかったと思います。落ち着かないコは『変わったコ』とされ、僕は『学年一変わったコ』だった。担任教師の口癖は『お前のせいで胃が痛いよ』でした」

 

姉・清美さんは、こう振り返る。

 

「とにかく感情の起伏が激しいコで、泣き叫んでいたかと思うと、次の瞬間に笑ってる。でもそんな様子もかわいくて、特に気にしていなかったんです」

 

勉強に厳しい父だったが、一方で芸術に興味を持たせてくれた。

 

「父は8ミリカメラの映像を編集するのが上手でした。旅行の記録にポール・モーリアの曲を入れ、母の声でナレーションを入れていたんです。自然と、僕も映像制作に興味が湧きました」

 

初めて劇場で映画を観たのは9歳で、認知症が題材の『恍惚の人』(1973年)。小学校高学年時に将来の夢は「映画監督」と定まった。

 

「中学の作文の課題で書いたホラー小説が評価されました。でも、創造性が最も表現できるのは映画だと思っていたし、自分で撮りたかった。自主映画からメジャーになる夢を描いていました」

 

高輪商業高校を経て、日大藝術学部映画学科監督コースに進学。だが就職活動では、映画制作会社が不採用で、1987年、フジテレビのアルバイト・ディレクターに。

 

「その後は制作会社のテレビマンユニオンに入社し、テレビのドキュメンタリー番組などを手がけました。伊丹十三監督(故人)にも目をかけていただきました」

 

才能が開花した矢先「監督として独立するため」丸2年で退社。唐突に思える行動も「目的はハッキリしていました」と彼は言う。

 

「日藝の同級生で無二の親友だった村田昌彦という男が、僕を置いて’88年、がんで亡くなりました。僕の心の多くを占めていた彼との友情を、自分の監督映画として描きたかったんです」

 

そのデビュー作『喪の仕事』(1991年)は、がんに倒れた親友が死を前になにを思ったのかを、主人公が探っていく私小説的な物語だ。

 

専門家に高く評価され、主演の永瀬正敏は同年、ほかの作品とあわせ日本アカデミー賞最優秀助演男優賞と新人俳優賞をW受賞した。

 

「でも作品のヒットには結び付きませんでした。その後の10年間で5本を監督しましたが、結果的にすべてコケてしまったんです」

 

君塚さんは、精神的にも肉体的にもすっかり疲弊していた。

 

「僕は一気に壊れてしまいました。ある日、布団から起き上がることができなくなって、医師に『双極性障害』と診断されたんです」

 

それが2000年、35歳のころだ。双極性障害とは、気分が極端に高揚する躁状態と、逆にひどく落ち込む鬱状態を繰り返す疾患だ。

 

君塚さんによれば、作品を出すことで「日常の“生きづらさ”を紛らせていた」ものの「ストレスは相当かかっていた」という。

 

「じつは起きられなくなる直前に結婚したんですが、うまく行かず、のちに離婚しました。ストレスが重なり、暴飲暴食で生活習慣病に……負のスパイラルに陥りました」

 

高血圧、糖尿病に糖尿病性顕性腎症、糖尿病による眼底出血……まさに「病気のデパート」だった。姉・清美さんが振り返る。

 

「弟はだんだん具合が悪くなっていきました。口もきかなくなり、会いにも行きにくくなっちゃって。いちばん重いときは、いまより体重が20キロも重く、100キロ以上はあったと思います」

 

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