■「大きな声を出して」という課題に「◯◯子─好きだ─」と絶叫
「オンシアター自由劇場」は、演出家の串田和美と、看板女優の吉田日出子が’75年に立ち上げた劇団で、吉田は、映画やドラマで活躍し、注目を浴びていた。
「ドラマ『木枯し紋次郎』(フジテレビ系)に出演していた吉田さんが所属する劇団がいいなと思ったんです。あと、文学座は入所金が高かったけれど、自由劇場は4万円と安かったの(笑)」
入団試験で「大きな声を出して」と、注文された小日向さんは、「◯◯子──好きだ─」と、声を振り絞って叫んだ。
「とっさにね、失恋した看護師さんの名前を叫んだの(笑)。ほかの人たちよりも自分はあっという間に終わって、これはダメだと思いました。吉田さんに『握手してください』と記念に握手してもらって帰りました。そしたら、受かってたんですよ」
’77年、23歳。神宮前の四畳半、共同トイレ、風呂なしのアパートに住み、2つのバイトを掛け持ちして俳優としての道を歩みはじめた。
「劇団の稽古が、午後1時~5時。夕方から銀座のカフェのコック。夜11時~朝5時も原宿でバイトして仮眠後に稽古へ戻る日々。忙しかったけれど、充実していたなあ」
発声練習に加え、人前で瞬間的に喜怒哀楽の感情を表現するなど、連日稽古に明けくれた。
「恥ずかしいと思う暇がないくらいに集中してやらされましたね。
串田さんと吉田さんは僕の“芝居の両親”で、大事なことを教え込まれました。串田さんからは『すべてにおいて役者からの発想で考えるように』、吉田さんからは『ずっとお芝居のことを考えなきゃいけない』と──」
しかし現実では、役者の仕事はなく、裏方業ばかりが続き「辞めたい」と訴えたこともあった。
「履歴書にデザイン学校と写真学校と書いたので、さんざん裏方をやらされたんですね。元々、映像の仕事をやりたかったのに。同級生の友人の豪邸のガレージで舞台用の大きな絵を一人で描きながら、すごく焦りました」
串田さんに「映像をやりたいから辞めます」と直談判すると「(仕事)来てから言えよ。お前が今、辞めたら、熟す前の青いりんごを海に捨てて腐るだけだぞ」と、説得されたという。
入団から5年目の’82年。27歳のとき『イカルガの祭り』(’83年1月上演)という作品で、とうとう吉田日出子さんの相手役に抜擢された。
そのころ、同劇団も『上海バンスキング』(’79年~)が大ヒット。役者業も充実し始めたころだったが、恋が実ることはなかった。
「バイト先で知り合った女性から豪華マンションを提供されて、段ボール4つ運んでアパートから引っ越したけど、あっという間に捨てられたり……(苦笑)」
浄瑠璃の名作『女殺油地獄』の主人公で、プレーボーイの与兵衛を演じたときは、自らも恋多き男になろうと努力したことがあったものの「自分の性に合わない」ことがわかり、やめたこともあった。
そして36歳のある日のこと。人生の一大転機が──。
「劇団員の後輩の女の子が、なにか寂しそうで、稽古の後、『ちょっと飲まない?』と誘ったの。僕もちょうど失恋した直後でした。それで2人で飲んで、なんか自然な感じで、縁の深さを感じてつきあい始めたのが、女房です(笑)」
奥さんは11歳年下で、演出家から期待されていた若手だったため、周囲には内緒で交際を続けた。
「女房とは、お金がなくてもちょっとしたおいしいものを『おいしいね』と満足できる価値観が同じでした。
そして何より『家庭をつくりたい。子供を育てたい』と言ってくれて深い愛情を感じました。
僕たちは人生の同志だったんですね。いろいろな別れがあってこそ女房と結ばれる運命だったんだなって、つくづく思います」
39歳で結婚。夫婦で羽根木公園を歩いていた際「子育てするならここがいいね」と決め、世田谷のマンションに新居を構えた。’95年、41歳のときに長男の星一さん(30)が誕生。
「もうかわいくてしょうがなかった」
父になった小日向さんだが’96年、19年間在籍した劇団が解散。生活が急変する。俳優として事務所に所属はしたが、連続ドラマ1本に出演した後、映像の仕事は単発ばかり。映像の仕事を取るために、舞台も休んでいたそうだ。
「貯金は0円なのに僕も女房も、『なんとかなる』と思っていて、アルバイトをするわけでもなくて。僕は一日中暇なので積極的に育児に参加していました。朝から息子と公園に行って女房とママ友たちと一緒の時間を過ごしたり」
’98年には次男の春平さん(27)も誕生した。
「ベッドを2つくっつけて、家族4人で川の字になって寝るのが大好きで。女房、星一、春平の足元にいて、体を伸ばすと全員の足を触っていられるのがうれしくてね。もう、本当に家族大好き~!」
『ばけばけ』の撮影でも、貧しいながら家族が笑顔でいる場面では、このころを思い出すという。
「お金はないけれど、狭い家でも本当に楽しくてね。今も、当時の家族写真を見ると、『このころに戻りたいな~』と思います」
幸せな日々ながら、家長として家族を養わなければならない。奥さんから「お金がなくなった」と言われると、その度に所属事務所に電話した。
「半年に1回くらい、まとめてかなりの額を前借りしていました。今思うとよく貸してくれたなと思います(笑)
でも僕には劇団で培ってきたものがある。だから仕事がくれば、期待に応えられるはずだという自信はありました」
それでも仕事はなく、被害妄想に陥ったことも……。
「女房が掃除機をかけていて、横になっている僕にぶつかると、『わざとやってるんじゃないか』と思って、『言いたいことがあれば言えよ!』と怒鳴ってしまったの。そしたら女房は『かわいそう』って抱きしめてくれた……。
でも、今思うと、本当はぶつけたんじゃないのかな~(笑)」
(取材・文:川村一代/ヘアメーク:河村陽子/スタイリスト:石橋修一)
【後編】小日向文世 芝居で参考にすることも…父が晩年に見せた“人間の黒い部分”へ続く
画像ページ >【写真あり】小日向が中村雅俊の付き人をしていた時代の貴重なツーショット(他7枚)
